愚管抄_後三条天皇の新政
from 愚管抄
愚管抄_後三条天皇の新政
この後三条位の御時、延久の宣旨斗と云物さたありて、今まで其を本にして用ひらるる斗まで御沙汰ありて、斗さしてまいりたれば、清涼殿の庭にてすなごを入てためされけるなんどをば、「こはいみじきことかな」とめであふぐ人もありけり。又、「かヽるまさなきことは、いかに目のくるヽやうにこそみれ」など云人もありけり。これは内裏の御ことは幽玄にてやさヽヽとのみ思ひならへる人の云なるべし。
延久の記録所とてはじめてをかれたりけるは、諸国七道の所領の宣旨官符もなくて公田をかすむる事、一天四海の巨害なりときこしめしつめてありけるは、すなはち宇治殿の時二の所の御領+とのみ云て、庄園諸国にみちて受領のつとめたへがたしなど云を、きこしめしもちたりけるにこそ。さて宣旨を下されて、諸人領知の庄園の文書をめされけるに、宇治殿へ仰られたりける御返事に、
「皆さ心ゑられたりけるにや、五十余年君の御うしろみをつかうまつりて候し間、所領もちて候者の強縁にせんなど思つヽよせたび候ひしかば、さにこそなんど申たるばかりにてまかりすぎ候き。なんでう文書かは候べき。たヾそれがしが領と申候はん所の、しかるべからず、たしかならずきこしめされ候はんをば、いさゝかの御はヾかり候べきことにも候はず。かやうの事は、かくこそ申さたすべき身にて候へば、かずをつくしてたをされ候べきなり」と、
さはやかに申されたりければ、あだに御支度さういの事にて、むごに御案ありて、別に宣旨をくだされて、この記録所へ文書どもめすことには、前太相国の領をばのぞくと云宣下ありて、中々つやヽヽと御沙汰なかりけり。この御さたをばいみじき事哉とこそ世の中に申けれ。
さて又当時氏の長者にては大二条殿をはしめけるに、延久のころ氏寺領、国司と相論事ありける。大事にをよびて御前にて定のありけるに、国司申かたに裁許あらんとしければ、長者の身面目をうしなふ上に神慮又はかりがたし。たヽ聖断をあをぐべし。ふして神の告をまつとて、すなはち座をたゝれにけり。藤氏の公卿舌をまき口をとぢてけり。其後やましな寺に如本裁許ありければ、衆徒さらに又長講はじめて国家の御祈しけりと、親経と申し中納言、儒卿こそさいかくの物にてかたりけれ。解脱房と云しひじりも説経にしけるとかや。宇治殿のゆづりをゑて、ことにきかれたてまつらんなどをもはれけるにや。