愚管抄_平家の繁栄
愚管抄_平家の繁栄
さて同年四歳の内をおろしまいらせて、八歳の東宮高倉院を位につけまいらせてけり。この新院をば六条院とぞ申ける。それは十三にて御元服だにもなくてうせ給にけり。
邦綱がむすめ嫡女を御めのとにしたりけり。大夫三位とて成頼が妻なり。成頼入道が出家には物語どもあれど無益なり。二のむすめをば又この高倉院の東宮の御めのとにして別当の三位と云けり。この事かくはからひたるめでたさに、邦綱は法性寺殿は上階などまではおぼしめしもよらざりけるに、やがて蔵人頭になして三位・宰相・東宮権大夫になして、御めのとにて後には正二位の大納言までなしてけり。
かくて清盛が子ども重盛・宗盛、左右大将になりにけり。我身は大政大臣にて、重盛は内大臣左大将にてありける程に、院は又この建春院になりかへらせ給て、日本国女人入眼もかくのみありければ誠なるべし。先は皇后宮、のちに院号国母にて、この女院宗盛を又子にせさせ給てけり。
承安元年十二月十四日、この平太相国入道がむすめを入内せさせて、やがて同二年二月十日立后、中宮とてあるに、皇子を生せまいらせて、いよヽヽ帝の外祖にて世を皆思ふさまにとりてんと思ひけるにや、様々の祈どもしてありけるに、先は母の二位日吉に百日祈けれどしるしもなかりければ、入道云やう、「われが祈るしるしなし。今見給へ祈出でん」と云て、安芸国厳島をことに信仰したりけるへ、はや船つくりて月まうでを福原よりはじめて祈りける。六十日ばかりの後御懐姙ときこゑて、治承二年十一月十一日六波羅にて皇子誕生思ひの如くありて、思さまに入道、帝の外祖になりにけり。