愚管抄_平家の滅亡
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愚管抄_平家の滅亡
かやうにて平氏は西国に海にうかびつヽ国々領したり。坂東は又あきたれど末落居京中の人あざみなげきてある程に、元暦二年三月廿四日に船いくさの支度にて、いよヽヽかくと聞て、頼朝が武士等かさなりきたりて西国にをもむきて、長門の門司関だんの浦と云ふ所にて船のいくさして、主上をばむばの二位宗盛母いだきまいらせて、神璽・宝剣とりぐして海に入りにけり。ゆヽしかりける女房也。内大臣宗盛以下かずをつくして入海してける程に、宗盛は水練をする者にて、うきあがりうきあがりして、いかんと思ふ心つきにけり。さていけどりにせられぬ。
主上の母后建礼門院をば海よりとりあげて、とかくしていけたてまつりてけり。神璽・内侍所は同き四月廿五日にかへりいらせ給にけり。宝剣は海にしづみぬ。そのしるしの御はこはうきて有けるを、武者とりて尹明がむすめの内侍にてありけるにみせなんどしたりけり。内侍所は、大納言時忠とて二位がせうと有りき、ぐしてある者どもの中に、時信子にてつかへし者にて、さかしきことのみして、たびヽヽながされなんどしたりし者、とりてもちたりけり。これ皆とりぐして京へのぼりにけり。二宮もとられさせ給て上西門院にやしなはれてをはしけり。宝剣の沙汰やうヽヽにありしかど、終にゑあまもかづきしかねて出でこず。其間の次第はいかにともかきつくすべき事ならず。たヾをしはかりつべし。大事のふし※※ならぬ事はその詮もなければ書をとすことのみ有り。
其後この主上をば安徳天皇とつけ申たり。海にしづませ給ひぬることは、この王を平相国いのり出しまいらする事は、安芸のいつくしまの明神の利生なり。このいつくしまと云ふは竜王のむすめなりと申つたへたり、この御神の、心ざしふかきにこたへて、我身のこの王と成てむまれたりけるなり、さてはてには海へかへりぬる也とぞ、この子細しりたる人は申ける。この事は誠ならんとをぼゆ。