愚管抄_師実の養女の入内
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愚管抄_師実の養女の入内
又ある日記には、延久二年正月、除目終頭、関白攀縁、起座敷出殿上、此間事止数剋、依頻召帰参云云。なに事ゆへとはなけれども季綱ゆげいのすけになりける事にや。
世間のさたかやうにうちききて、宇治殿は年八十に成て宇治にこもりいて、御子の京極の大殿の左大臣とてをはしけるを、「内裏へ日参せよ。さしたることなくとも、日をかヽずまいりてほうこうをつむべきぞ」とをしへ申されければ、そのまヽにまいりて殿上に候て、いでヽヽせられけるに、主上はつねに蔵人をめして、「殿上にたれヽヽか候々 」と、日に二三度もとはせをはしましけるに、たびごとに、「左大臣候」と申て、日ごろ月ごろろになりけるほどに、ある日の夕べに御たづねありけるに、又、「左大臣候」と申けるを、「これへといへ」とをほせのありければ、蔵人まいりて、「御前のめし候」と申ければ、「めづらしき事かな。何ごとをほせあらんずるにか」とをぼして、心づくろいせられて御裳束ひきつくろいてまいられたりければ、「ちかくそれへ」と仰られて、なにとなき世の御物がたりどもありて、夜もやうヽヽふけゆきけるをはりつかたに、「むすめやもたれたる」と仰いだされたりければ、「ことように候めのわらは候」と申されける。
わがむすめはなかりけるを、師房の大臣の子の顕房のむすめを、ちの中より子にしてもたせたまへりける也。宇治殿は後中書王具平のむこにて、その御子土御門の右府師房を子にしてをはしけり。このゆかりにて、宇治殿の御子にして、師房をもその子の仁覚僧正と云山の座主も、一身あざりになしなどしてをはしけり。又ことにはやがて京極殿は、土御門右府師房の第三のむすめを北政所にしてをはしければ、顕房のむすめは北政所のめいなれば、子にしてをほしたて給ひけるなり。かやうのゆかりにて、源氏の人々もひとつになりてをはしけるゆへに、そのむすめをひとへに我子にはしてをはするなりけり。