愚管抄_小野宮殿と九条殿
from 愚管抄
小野宮殿と九条殿
この貞信公御子に小野宮・九条殿とておはすめり。此事どもは、よつぎの鏡の巻にこま※※とかきたれば申にをよばねども、つじヽヽのあふところをば申べきにや。弟の九条右丞相、あにの小野宮殿にさきだちて一定うせなんずとしらせ給て、「我身こそ短祚にうけたりとも、我子孫に摂政をば伝ん、又我子孫を帝の外戚とはなさん」とちかひて、観音の化身の叡山の慈恵大師と師檀の契ふかくして、横川の峯に楞厳三昧院と云寺を立て、九条殿の御存日には法華堂ばかりをまづつくりて、のぼりて大衆の中にて火うちの火をうちて、「我が此願成就すべくば三度が中につけ」、とてうたせ給けるに、一番に火うちつけて法華堂の常灯につけられたり。いまにきえずと申伝へたり。さればその御女の腹に、冷泉・円融両帝よりはじめて、後冷泉院まで、継体守文の君、内覧摂籙の臣あざやかにさかりなり。其後、閑院の大臣のかたにうつりて、又白川・鳥羽・後白川、太上天皇ながら世をしろしめす君におはします。後白川のつぎには、当院伝ておはしますも、中関白道隆のすぢなり、
この日本国観音の利生方便は、聖徳太子よりはじめて、大織冠・菅丞相・慈恵大僧正かくのみ侍る事をふかく思しる人なし。あはれあはれ王臣みなかやうの事をふかく信じて、聊もゆがまず、正道の御案だにもあらば、劫初劫末の時運は不及力、中間の不運不慮の災難は侍らじものを。さればよくをこなはるヽ世はみな夭は徳にかたずとてのみこそ侍れ。
その九条右丞相の世をぼへは、ならぶ人もなかりければにや、延喜の御むすめ、村上の内裏に御同宿にてありけるを、はじめはしのびやかなれども後にはあらはれにけり。内親王にて弘徽殿にすへまいらせられたりける也。閑院の大政大臣公季と申はその御はらなり。閑院(を)ことなる華族の人とよに云ことはこの故なりとこそ申めれ。