愚管抄_将軍暗殺
愚管抄_将軍暗殺
ゆヽしくもてなしつヽ拝賀とげける。夜に入て奉幣終て、宝前の石橋をくだりて、扈従の公卿列立したる前を揖して、下襲尻引て笏もちてゆきけるを、法師のけうさう・ときんと云物したる、馳かヽりて下がさねの尻の上にのぼりて、かしらを一のかたなには切て、たふれければ、頚をうちをとして取てけり。をいざまに三四人をなじやうなる者の出きて、供の者をいちらして、この仲章が前駈して火ふりてありけるを義時ぞと思て、同じく切ふせてころしてうせぬ。義時は太刀を持てかたはらに有けるをさへ、中門にとゞまれとて留めてけり。大方用心せずさ云ばかりなし。皆蛛の子を散すがごとくに、公卿も何もにげにけり。かしこく光盛はこれへはこで、鳥居にもうけてありければ、わが毛車にのりてかへりにけり。みな散々にちりて、鳥居の外なる数万武士これをしらず。
此法師は、頼家が子を其八幡の別当になしてをきたりけるが、日ごろをもいもちて、今日かヽる本意をとげてけり。一の刀の時、「をやの敵はかくうつぞ」と云ける、公卿どもあざやかに皆聞けり。かくしちら(し)て一の郎等とをぼしき義村三浦左衛門と云者のもとへ、「われかくしつ。今は我こそわ大将軍よ。それへゆかん」と云たりければ、この由を義時に云て、やがて一人、この実朝が頚を持たりけるにや、大雪にて雪のつもりたる中に、岡山の有けるをこゑて、義村がもとへきける道二人をやりて打てけり。とみにうたれずして切ちらしヽにげて、義村が家のはた板のもとまできて、はた板をこへていらんとしける所にてうちとりてけり。
猶ヽヽ頼朝ゆヽしかりける将軍かな。それがむまごにて、かヽる事したる。武士の心ぎはかヽる者出き。又をろかに用心なくて、文の方ありける実朝は、又大臣の大将けがしてけり。又跡もなくうせぬるなりける。
実朝が頚は岡山の雪の中よりもとめ出たりけり。日頃わか宮とぞこの社は云ならいたりける、其辺に房つくりて居たりけるへよせて、同意したる者共をば皆うちてけり。又焼はらいてけり。かヽる夢の又出きて、
二月二日のつとめて京へ申て聞へき。院は水無瀬殿にをはしましけるに、公経大納言のがり実氏などがふみ有ければ、参りてさはぎまどいて申てけり。この二日、卿二位は熊野へ詣でして天王寺につきて候けるに、かくと告ければ、かへらんとしけるを、「あなかしこ。なかへりそ」と御使をひヽヽに三人まではしれりければ、やがてまいりにけり。さてこはふかしぎのはざかなにて有ける程に、下向の公卿も又やうヽヽ皆上洛してけり。
さて鎌倉は将軍があとをば母堂の二位尼総領して、猶せうとの義時右京権大夫さたしてあるべしと議定したるよしきこへけり。其夜次の日郎従出家する者七八十人まで有けり。さまあしかりけり。
広元は大膳大夫とて久しく有ける。この先に目をやみて、大事にて目はみず成にけり。すこしはみるにやなどにて出家してあんなれども、今はもとには似ぬなるべし。其子も皆若々として出家してけり。入道のをヽさ云ばかりなし。
かヽること共あれば、公卿の勅使たてられけるに、宸筆宣命には文武の長のうせぬるよしには、去年冬左大臣良輔臣、今年春実朝如此うせぬる、をどろきをぼしめすよしこそのせられたりけれ。よしすけのをとヾ誠にやんごとなかりける人かな。