愚管抄_実朝の昇進
愚管抄_実朝の昇進
かくてすぐる程に仲章と云者、使してをりのぼりしつヽ、実朝先はこれよりさきに、中納言中将申てなりぬ。さて大将にならんとて、左大臣の大将を兵仗にかへて九条殿の例なればとて、いそぎあけて左大将になされぬ。やがて大臣にならんと申て、ならんに取ては、内大臣は例わろし、重盛・宗盛など云も、皆内大臣なりければなど云不思議どもきこゑし程に、
九条殿の子に良輔左大臣、日本国古今たぐひなき学生にて、左大臣一の上にて朝の重宝かなと思たりき。昔師尹小一条左大臣、一条摂政右大臣なりけるに似たる物かなと、心ある人思けり。君もいみじと思食たりき。八条院に母三位殿と云し人、母の方の御むつびにて、院中第一の者にて候しかば、女院より養立られまいらせてをひたちたりし人の、同年の冬ごろ、世にもがさと云病をこりたりしを、大事にはづらいて十一月十一日にうせ給にけり。師尹もかくうせられたりける、これまでも似たる事也。家に皇子誕生十月十日ありて、世のよろこび又家のをこるにて有しかば、「一定我は死なんず。あやしながら此ほどの身になり居たれば、憂喜集門云言我身にあたれり」と、死なんとての前日いはれけり。かヽる事出きて左大臣闕ありければ、内大臣実朝思のごとく右大臣になされにけり。
さて京へはのぼらで、この大将の拝賀をも関東鎌倉にいはいまいらせたるに、大臣の拝賀又いみじくもてなし、建保七年正月廿八日甲午とげんとて、京より公卿五人檳榔の車くしつヽくだり集りけり。五人は、
大納言忠信内大臣信清息。
中納言実氏東宮大夫公経息。
宰相中将国通故泰通大納言息朝政旧妻夫也。
正三位光盛頼盛大納言息。
刑部卿三位宗長蹴鞠之料に本下向云々。