愚管抄_天皇殺害
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愚管抄_天皇殺害
そのヽち御子たち三人みな御位につかせ給ふ。武内大臣この御時まで候へけり。二百八十四年をへてかくれたる所をしらずとこそ申をきたれ。つぎヽヽに履中・反正・允恭と、三人あによりをとヽざまへ御位にて、
安康は允恭の第二皇子にておはしましけるが、第一の太子をころしたてまつりて位につかせ給にけり。ゆヽしの仁徳の御むまごながら、にさせ給はずなどあさましく覚ゆるもしるく、三年のほどに、まヽこの眉輪王とて七歳にならせ給けるとぞ申つたへたる、この眉輪の王にころされ給にけり。又すなはち円の大臣の家にて眉輪もつぶらもころされにけり。わづか二三年のほどの乱逆、これも世のすゑを又ことのはじめにをしへをけるにや。
まゆわの王のちヽ大草香の皇子は、安康のをとヽなり。このをとヽをころしてそのめをとりて后にして、楼のうへにたのしみてものがたりして、このまヽこのまゆわおとなしくなりて、思ところやあらんずらんと、をほせられけるを、ろうのしたにてきヽて、母のひざをまくらにして、さけにゑひてふし給けるを、はしりのぼりて御かたはらにありけるたちをとりて、くびをうちきりたてまつりて、つぶらの大臣の家へにげておわしたりけりと申つたへたり。かへすがへすこの事は思ひ知るべき事どもかな。