愚管抄_天皇と御後見役
愚管抄_天皇と御後見役
太神宮(=伊勢神宮)・八幡大菩薩の御教へのやうは、「御後見の臣下と少しも心を置かずおはしませ」とて、魚水合体(がつてい)の礼と云ふことを定められたる也。こればかりにて天下の治まり乱るる事は侍るなり。
天児屋根命(あまのこやねのみこと=藤原氏の祖先の神)に、天照(あまてる)御神の、「殿(との)の内にさぶらいて、よく防ぎ守れ」と御一諾(いちだく)を遥か<昔>にし、末(すへ)の違(たが)うべきやうの露ばかりもなき道理を得て、藤氏の三功といふ事出で来ぬ。
その三つと云ふは、大織冠(=鎌足)の入鹿を誅し給ひしこと、永手(ながた)大臣・百河(ももかは)の宰相が光仁天皇を立て参らせし事、昭宣公の光孝天皇を又立て給ひしこと、この三つ也。はじめ二つは事上がりたり(=遠い昔のこと)。昭宣公の御事は、清和の後に定かに出で来たる事也。
その後すべて国王の御命の短き云ふばかりなし。五十に及ばせ給ひたる一人もなし。位(くらゐ)を降りさせ給ひて後は、皆又久しくおはしますめり。これらは皆人知りたれど、一度に心に浮かぶことなければ、うるさきやうなれど、これを先づ申しあらはすべし。
清和はわづかに御歳三十一、治天下十八年なり。
陽成は八年にて降りさせ給ひぬ。八十一までおはしませど世もしらせたまはず。
光孝はただ三年、これはさらに(=特別に)出で来おはしたる事にて、五十五にてはじめてつかせ給ふ。
宇多は三十年にて位を去りて御出家、六十五までおはします。
醍醐は卅三年まで久しくて、御年も四十六にて、ただこればかり目出度き事にておはします。
朱雀は十六年にてあれど卅にて失せ給ふ。
村上は廿一年にて四十二まで也。
これ延喜・天暦とて、これこそ少し長くおはしませ。
冷泉は二年にて位を降りて、六十二迄おはしませど、ただ陽成と同じ御事なり。
円融は十五年にて卅四。
花山は二年にて四十一迄おはしませど云ふに足らず。
一条は廿五年にて卅二、幼主にてのみおはしますは、久しきも甲斐なし。
三条は五年なり。東宮にてこそ久しくおはしませども又甲斐なし。
後一条は二十年なれど廿九にて、又幼主にて久しくおはしましき。
後朱雀は九年にて大人(おとな=分別がある)しくおはしませども卅七、又程なし(=短い)。
後冷泉は廿三年にて四十二、これぞ少し程あれど、ひとへにただ宇治殿のままなり。
この国王の代々の若死をせさせ給ふにて深く心得べきなり。高きも卑しきも、命の耐(た)ふるに過ぎて、作り堅めたる道理を表はす道はあるまじき也。日本国の政を作り変(かふ)る道理(=摂関政治)と、降りゐの御門の世を知ろしめすべき時代に落ち下ることの、まだしきほど、国王の六十七十までもおはしまさば、摂籙(せつろく)の臣の世を行なふと云ふ一段の世はあるまじき也。
さすがに君とならせおはしまして、五十六十まで脱屣(だつし=退位)もなくてあらんには、ただ昔のままにてこそあるべけれ。誠に御年の若くて、初めは幼主の摂政にて、やうやうさばかりにならせ給へども、我と(=自分で)世をしらむと思(おぼ)し召すほどの御心ばへなし。
摂籙の臣の器量めでたくて、その御まつり事を助けて、世を治めらるれば事も欠けず。さるほどに君は卅が内外(うちと)にて皆失せさせ給ふ也。これこそは太神宮の、この中ほど(=清和以後)は君(きみ)の君にて昔の如くえあるまじければ、此料(れう=為)にこそ神代より、「よく殿内(とのうち)を防ぎ守れ」と言ひてしかば、その子孫に又かく器量あい適(かな)ひて、生まれあい生まれあいして、この九条の右丞相の子孫の、君の政をば助けんずるぞと、<道理が>作り合はせられたる也。
さてその後、太上天皇にて世を知ろしめすべしと又定まりぬれば、白河・鳥羽・後白河と三代は七十、六<十>、五十に皆余り余りして世をば知ろしめすになん。さればこの理(ことはり)はこれにて心得られぬ。