愚管抄_天変と譲位
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愚管抄_天変と譲位
さてすぐる程に、承元四年九月卅日、ははき星とて、久しく絶たる、天変の中に第一の変と思ひたる彗星いで、夜を重ねて久く消えざりけり。よの人いかなる事かとをそれたりけり。御祈どもあり。慈円僧正など熾盛光法をこないなどしていでずなりたれど、御つヽしみはいかヾにてあるほどに、同十一月十一日に又出きにけり。そのたび司天のともがらも大に驚き思ひける程に、「上皇信をいたして御祈念などありけるに御ゆめの告のありけるにや」とぞ人は申ける、忽に御譲位の事ををこなはれて、承元四年十一月廿五日に受禅事ありけり。さて東宮のみやす所は、やがて承元五年正月廿五日立后ありて、東宮と申てをはしける程に大相国のむすめの中宮は、其後、内をりさせをはしまして新院とてをはしますにまいらせ給べきを、「今はさなくてありなん」と、院の御気色ありければ、院号蒙りて陰明門院とてをはしましけり。
さて大嘗会をこなはれんとしけるに、朱雀門俄にくづれをちたりける上に、春花門院うせさせ給て、御服仮もいできにければ、次の年にのびにけり。大嘗会の御禊の行幸の日にて、朱雀門のくづれはよの人もぎよとをもへり。されども御禊ばかりにてのびたる例のあるとてのびにけるなり。よの人いかにぞをもへりけれど、別にあしき事もなくて、次の年朱雀門はつくりいだされて、ことなくおこなはれにけり。誠にも彗星この御譲位の事にてありければにや、上皇の御つヽしみはいともなくてやみにけるなり。
さて大相国はこの陰明門院中宮の御時、春日の行啓と云事、先例もいとなかりける事を思ふごとくおこないて、我身兵仗給て、一の人のごとくにて、ぐしまいらせてまいりなどして、後に出家して大政入道とて候はるヽ也。人は随分に皆、我本意はとぐる事なるを、すぐる案をたヾよくヽヽひかふべき事也。
さて当今佐渡院御母は、建永二年六月七日院号ありき。立后はなし。二位せさせ給て、きと准后の宮になり給て、修明門院と云院号ありけり。この例は八条院の御時よりはじまりけるとぞ。又東宮御即位の後、院号近例かならずある事也。されば又範季の二位も贈左大臣に成にき。出家いとよにすべかりし人の、この事を思て出家もせずしてうせにしが、はたしてかヽればめでたき事也。
さて左大将は又建暦二年六月廿九日に任内大臣にけり。