愚管抄_基房の没落と基通の昇進
愚管抄_高倉宮追討
この松殿は摂籙の後、年比の北方三条の内大臣公教の女にむことられて、その子ども実房・実国など云人々ともして沓とり簾もたげて、法性寺殿の存日よりの事にていみじかりけるを、花山太相国忠雅むすめをもちたりける、摂籙の北政所になしたがりて、むこにとり申てけり。世間のゆヽしき沙汰にて、最愛の中になりて、師家と云子うみて、八歳にて中納言になして、かヽる事ども出きにけり。その後はわざと、殿下御出とてあれば実房は直衣の袖中門廊の妻戸にさし出すやうにて、無愛にのみふるまひければ、あれみよなど人云けり。兼雅は又かはりて、そのたうこそは家礼はしけめ。あはれたヾ器量と云もの一にぞ大切なれ。
さて白河殿と云し北政所も、延勝寺の西にいみじく家つくりてありしも、治承三年六月十七日うせられにけり。これは中一年ありて小松内府は八月朔日うせて後、かれが年比しりける越前国を、入道にもとかくの仰もなくて左右なくめされにけり。又白河殿うせて一の所の家領文書の事など松殿申さるゝ旨ありけり。院もやうヽヽ御沙汰どもありけりなど聞て、をとヽしの事どもふかくきざして上に、いかなるこの外のやうかありけん、入道福原より武者だちてにはかにのぼりての、我身も腹巻はづさずなどきこゑき。
かくして同き治承三年十一月十九日に解官の除目、同廿一日に任官除目と云ものを行ひて、この近衛殿の二位中将とて年は二十にてありしを、一どに内大臣になしてき。重盛が内大臣闕いまだならざりし所なり。さてやがて関白内覧臣になしてき。九条の右大臣兼実は右大臣にて法性寺殿の三男、さヽいなくて、天下の事預顧問て、兵杖の大臣にて候はれしをこゑて、しかもこの右大臣に、「殊に扶持し給へ」とて、子の二位の中将とて良通十二にてありしを、一度にこの除目に中納言の右大将になしなどして、やがて関白をば備前国へながすともなく、邦綱が沙汰にてくだし申ければ、俄に鳥羽にて大原の本覚房よびて出家せられにけり。院の近習の輩散々に国々へやりて、やがて院をばその廿日鳥羽殿に御幸なして、人ひとりもつけまいらせず、僅に琅慶と云僧一人など候はする体にて置まいらせて、後に御思ひ人浄土寺の二位をば、其時は丹後と云し、そればかりはまいらせられたりけり。