愚管抄_国王の条件
愚管抄_国王の条件
さて<世の>末ざまは事の繁くなりて尽くしがたく侍れども、清和の御時はじめて摂政を置かれて、良房の大臣(おとど)出で来たまひし後、その御子にて昭宣公(=基経)の我が甥(をひ)の陽成院をおろし奉りて、小松の御門を立て給ひしより後の事を申すべき也。
先づ道理移り行く事を、地体(ぢたい)によくよく人は心得べき也。いかに国王と云ふは、天下の沙汰をして世を鎮(しづ)め民を憐(あは)れむべきに、十(とを)が内なる幼き人を国王にはせんぞ(=するだらうか)と云ふ道理の侍るぞかし。
次に国王とて据ゑまいらせ後は、いかに悪ろくとも、たださてこそあらめ。それを我が御心より起こりて降りなんとも仰せられぬに、押し降ろしまいらすべきやうなし。「これを云ふぞかし、謀反とは」と云ふ道理又必然の事にて侍るぞかし。其れにこの陽成院を降ろし参らせられしをば、謂はれず昭宣公の謀反なりと申す人やは世々侍る。つやつやとさも思はず又申さぬぞかし。御門(みかど)の御為(ため)限りなき功にこそ申し伝へたれ。
又幼主とて四つ五つより位に即(つ)かせ給ふを、しかるべからず、もの沙汰するほどにならせ給ひてこそ、と云ふ人やは又侍る。昔今即(つ)くまじき人を位に即くる事なければ、幼しとて嫌はば、王位は絶へなんず(=だらう)れば、この道理によりて幼きを嫌ふことなし。これら二つにて物の道理をば知るべきなり。
大方世のため人のため良かるべきやうを用ゐる。何ごとにも道理詮(せん=究極)とは申すなり。世と申すと人と申すとは、二つの物にてはなき也。世とは人を申す也。
その、人にとりて世と言はるる方は公(おほやけ)道理とて、国の政(まつりこと)にかかりて善悪を定むるを世とは申す也。人と申すは、世の政にも臨まず、すべて一切の諸人の家の内までを穏(おだ)しく哀れむ方の政を、又人とは申すなり。其の人の中に国王より始めてあやしの民まで侍るぞかし。
それに国王には、国王の振舞ひ能(よ)くせん人のよかるべきに、日本国の習ひは、国王の種姓(しゆしやう)の人ならぬ筋を国王にはすまじと、神の代より定めたる国なり。その中には又同じくは善からんをと願ふは、又世の習ひ也。
それに必ずしも我からの手ごみ(=手はずよく)に目出度くおはします事の難(かた)ければ、御後見(うしろみ)を用ゐて大臣(おほおみ)と云ふ臣下をなして、仰せ合はせつつ世をば行なへと定めつる也。この道理にて国王もあまりに悪ろくならせ給ひぬれば、世と人との果報に押されて、え保(たも)たせ給はぬなり。その悪ろき国王の運の尽きさせたまうに、また様々(やうやう=さまざま)のさま(=様態)の侍るなり。