愚管抄_四納言の活躍
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愚管抄_四納言の活躍
いまその子俊賢は又ことにことに御堂にはしたしく候て、いささかもあしき意趣なかりけり。よき人になりぬれば、ひがことは思へれども、やがて思ひかへし、又むやくのあしき意趣などをふかくむすぶことをせぬなり。さてこそわれも人もをだきし正道とは云ことなれ。あやまれるをあらたむる善の、これよりをほきなるなしと云明文は、かやうのことなるべし。大方御堂の御世には、よろづの人その心のをはしけるありさまの、すくヽヽと私なく、当時たゞよかるべきやうのほかに、又やうもなくはからいさだめをはしけるに、よろづ皆きヽて、人もなびき帰し申たりけるよと、あらはにみゆるなりける。
一の人もあるまじ。これを又かくみしりてもちいる臣家もあるまじ。かヽる器量どものあいヽヽぬる世を、などみざりけんとのみしのばるれども、さらに云かいなきすへの世なれば、思ひやるかたなし。
斉信は為光太政大臣子、公任は三条関白子、行成は一条摂政のむまご、義孝少将子なり。和漢の才にみなひでて、その外の能芸とり※※に人にすぐれたり。されど宇治殿左大臣、小野宮実資右大臣、大二条殿内大臣にて、みなさしも命ながくておはしければ、力およばぬことにてありけるなるべし。
四納言さかりのとき、てる中将、ひかる少将と(て)、殿上人のめでたきありけるは、中将のてヽは兵部卿の宮、母はたかつかさ殿のあねにてありければ、御堂の御子になりて成信とぞなは申ける。少将はあきみつの左大臣の子なり。重家とぞ申ける。
この二人仗儀のありけるを立聞て、四納言の我も我もと才覚をはきつつさだめ申けるを聞て、「われら成あがりなん後あれらがやうにあらんずるが、をとりては世にありても無益なり。いざ仏道と云道のあんなるへいりなん」とて、かいなして、二人ながら長保三年二月三日出家して、少将入道は大原の少将入道寂源とて、池上のあざりの弟子にて聞へたる人なり、中将入道は三井寺にて、御堂の御薨逝の時にも、善知識に候はれけるなどこそ申つたへたれ。とにもかくにもよきことのみ侍りける世にこそ。
一条院は伊周のいもうとをはじめの后にて、最愛の女御にてをはしけるが、いつしか長保元年主上廿の御年にや、王子をうみまいらせたりけるは敦康親王なり。三条院、老東宮にてをはしませば、御やまいをもくて卅二にてすでにうせなんとせさせ給ふに、東宮は卅六なれば、かヽるさかさまのまうけの君、当今御やまいまちつけてをはしませば、次の君はさうなし。その時この一条院の皇子東宮にたヽせ給べきことをおぼしめして、返々この一宮敦康親王をとをぼしめしけれど、御堂の御むすめ上東門院もてなしめでたくて、すでに二人まで皇子うみて、後一条・後朱雀をはします間、はぎりをぼしめしわづらふて、行成は中納言にて、この一宮敦康王の勅の別当にてありけるを、御病のゆかへちかくめしよせて、東宮にはたれとか遺言すべきと、ふかくをぼしめしわづらいたるさまに仰合られけるに、「さらにさらに思食わづらはるまじく候。二宮にをはすべきに候。さ候はでは、すゑあしきことにて一定為朝為君あしく候べし」とはからい申たりけるなり。二宮と申ぞ後一条院にてをはします。この事後ざまにもれきこへて、行成まめやかにめでたき人なりとぞ世二も云ける。
いかにもいかにも叡慮にこの趣ふかくきざして、御堂の御事などその時はさてはしませども、伊周ながされなどしてあるも、とがはちからをよばねども、あしき事のみゆきあいつヽ、御心もとけざりければ、さやうの御告文どもヽありけるにや。御堂と云誠の賢臣その世にをはせずは、あやうかるべかりける世にや。