愚管抄_和田合戦
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愚管抄_和田合戦
かくてすぐる程に、時政が時、関東に勢もあり、さもすこしむつかしかりぬべき武士、荘司二郎重忠など以下皆うちてけり。重忠は武士の方はのぞみたりて第一に聞へき。さればうたれけるにも、よりつく人もなくて、終にわれとこそ死にけれ。
平氏のあと方なきほろびやう、又この源氏頼朝将軍昔今有難き器量にて、ひしと天下をしづめたりつるあとの成行やう、人のしわざとはをぼへず。顕には武士が世にて有べしと、宗廟の神も定めをぼしめしたることは、今は道理にかないて必然なり。其上は平家の多く怨霊もあり、只冥に因果のこたへゆくにやとぞ心ある人は思ふべき。
かやうにてあかしくらす程に、関東の方のこと共も又いかになど世の中にはうたがい思ふ程に、実朝卿やうヽヽをとなしく成て、われと世の事ども沙汰せんとて有けるに、仲章とて光遠と云し者の子、家を興して儒家に入て、菅家の長守朝臣が弟子にて学問したりといはるゝ者の有しが、事のえんども有ければにや、関東の将軍の師になりて、常に下りて、事の外に武の方よりも文に心を入れたりけり。仲章は京にては飛脚の沙汰などして有けり。これが将軍をやうやうに漢家の例引て教るなど、世の人沙汰しける程に、又いかなることかと人思ひたりけり。
実朝は又関東に不思議いできて、我が館みな焼れてあやうき事有けり。義盛左衛門と云三浦の長者、義時を深くそねみてうたんの志有けり。たヾあらはれにあらはれぬと聞て、にはかに建暦三年五月二日義時が家に押寄てければ、実朝一所にて有ければ、実朝面にふたがりてたヽかはせければ、当時ある程の武士はみな義時が方にて、二日戦ひて義盛が頚とりてけり。それに同意したる児玉・横山なんど云者は皆うせにけり。其後又頼家が子の、葉上上人がもとに法師に成て有ける、十四になりけるが、義盛が方に打もらされたる者のあつまりて、一心にて此禅師を取て打出んとしける。又聞へて皆うたれにけり。十四になる禅師の、自害いかめしくしてけり。其後はすこししづまりにけり。