愚管抄_南都焼討ち
愚管抄_南都焼討ち
さて宮の三井寺よりならへおはします事は、奈良・吉野の方にうけとりまいらせんと支度したりければ、ふかくやす(か)らぬことにして、南都を追討せんとて公卿僉議行ひけり。隆季・通親など云公卿一すぢに、平禅門になりかへりたりければ、さるべきよし申けるを、左右大臣にて経宗・兼実多年ならびておはしける、右大臣おもひきりて、
「一定謀叛の証拠なくて、さうなくさ程の寺を追討はさらにゑ候はじ。就中春日大明神日本第一守護の神明也。王法仏法如牛角。不可被滅」之由、愚詞申されにければ、
左大臣経宗は昔のならひにおそれてよもこれに同ぜじと人思へりけるに、「右大臣申さるヽ旨一言あだならず。ひしとこれに同じ申」と申たりければ、さすがに左右大臣申さるヽ旨然るべしとてその時はやみにけり。
又治承四年六月二日忽に都うつりと云事行ひて、都を福原へ移して行幸なして、とかく云ばかりなき事どもになりにけり。乍去さてあるべき事ならねば、又公卿僉議行ひて、十一月廿三日還都ありて、すこし人も心おちいて有けるに、猶十二月廿八日に遂に南都へよせて焼はらひてき。その大将軍は三位中将重衡なり。あさましとも事もおろかなり。長方中納言が云けるは、
「こはいかにと思ひしに、さらに公卿僉議とてありしに、かへりなんと思ふよと推知してしかば、放詞さてよかるべき由申てき」とぞ云ける。