愚管抄_北条時政の専横と没落
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愚管抄_北条時政の専横と没落
かくて京へかくりきのぼせて、千万御前元服せさせて、実朝と云名も京より給はりて、建仁三年十二月八日、やがて将軍宣旨申くだして、祖父の北条が世に関東は成て、いまだをさなく若き実朝を面に立てすぎける程に、将軍が妻に可然人のむすめあはせらるべしと云出出きて、信清大納言、院の御外舅、七条院の御弟なり。それがむすめをほかる中に、十三歳なるをいみじく(し)立て、関東より武士どもむかえにまいらせてくだりけるは、元久元年十一月三日なり。法勝寺の西の小路に御さじきつくらせて御覧じけり。其御さじきは延勝寺執行増円法印とてありし者ぞ、承てつくりたりける。
さて信清は一定死なんずとしたしきうとき思たる重病久しくわづらいて、やみいきて終に大臣になされて、建保三年二月十八日に出家して、同四年二月十五日にうせにけり。かやうに人の事を申侍れば、年月へだつるやうに侍也。
かくて関東すぐる程に、時正わかき妻を設けて、それが腹に子共設け、むすめ多くもちたりけり。この妻は大舎人允宗親と云ける者のむすめ也。せうとヽて大岡判官時親とて五位尉になりて有き。其宗親、頼盛入道がもとに多年つかいて、駿河国の大岡の牧と云所をしらせけり。武者にもあらず、かヽる物の中にかヽる果報の出くる(ふ)しぎの事也。
其子をば京にのぼせて馬助になしなどして有ける、程なく死にけり。むすめの嫡女には、ともまさとて源氏にて有けるはこれ義が弟にや、頼朝が猶子ときこゆる、この友正をば京へのぼせて、院にまいらせて、御かさがけのをりも参りなんどして、つ(か)はせけり。ことむすめ共も皆公卿・殿上人どもの妻に成てすぎけり。
さて関東にて又実朝をうちころして、この友正を大将軍にせんと云ことをしたくする由を聞て、母の尼君さはぎて、三浦の義村と云をよびて、「かヽる事聞ゆ。一定也。これたすけよ。いかヾせんずる」とてありければ、義村よきはかり事の物にて、ぐして義時が家にをきて、何ともなくてかざと郎等をもよをしあつめさせて、いくさ立て、「将軍の仰なり」とて、この祖父の時正が鎌倉にあるをよび出して、もとの伊豆国へやりてけり。さて京に朝政があるを、京にある武士どもにうてと云仰せて、この由を院奏してけり。京に六角東洞院に家作りて居たりける、武士ひしと巻て攻ければ、しばし戦ひて終に家に火かけ、打出て大津の方へ落にけり。わざとうしろをばあけて落さんとしけるなるべし。山科にて追武士共も有ければ、自害して死ける頚を、伯耆国守護武士にてかなもちと云者ありける、取てもてまいりたりければ、院は御車にて門に出て御覧じけると聞へき。これは元久二年後七月廿六日の事也。
かくして北条をば追こめて、子共と云は実朝が母頼朝が後家なればさうなし。義時又をやなれば、今の妻の方にてかヽるひが事をすれば、むまごが母方の祖父の我れころさんとするを追こむる也。されば実朝が世にひしと成て沙汰しけり。時正がむすめの、実朝・頼家が母いき残りたるが世にて有にや。義時と云時正が子をば奏聞して、又ふつと上臈になして、右京権大夫と云官になして、此いもうとせうとして関東をばをこないて有けり。
京には卿二位ひしと世を取たり。女人入眼の日本国いよヽヽまこと也けりと云べきにや。