愚管抄_兼実一族のこと
愚管抄_兼実一族のこと
九条の右大臣は、文治二年三月十二日、ついに摂政詔、氏長者と仰せ下されにけり。去年十二月廿九日より内覧臣計にて、われも人も何ともなく思てありけるに、かくさだまりにければ、世の中の人も、げにヽヽしき摂籙臣こそ出きたれと思へりけり。さて右大臣いはれけるは、
「治承三年の冬より、いかなるべしとも思ひわかで、仏神にいのりて摂籙の前途には必ず達すべき告ありて、十年の後けふまちつけつる」といわれけり。
十六日やがて拝賀せられにけり。その夜ことに雨ふりたりけり。さてのち法皇には心しづかに見参に入てありければ、「われはかくなにとなきやうなる身なれど、世をば久く見たり。はヾからずたヾよからんさまにをこなはるべき也」など仰ありて、をぼへの丹後と云は浄土寺二位、宣陽門院の御母なり、いであはせさせなどしてありけり。又頼朝関東よりやうヽヽにめでたく申やくそくして、世のひしとをちひぬと世間の人も思てすぎけり。
去年十月廿八日に嫡子の良通大納言大将は、任内大臣、大饗いみじくをこないなどして、同四年正月に春日まうでせられけり。家嫡にて良通内大臣はぐせられければ、先例まれなることにて、如二長者御さきぐして一員にてありけり。御さきと云は、大外記・大夫史・弁・少納言をくるまのやかたぐちにうたする也。ゆヽしき事にてありけり。かく二人ならぶ時は一方はたヾの史・外記なり。二人づヽ五位史・外記出きにたれば、さあらん時は今すこし厳重にや。
さてその二月の廿日の暁、この内大臣ね死に頓死をしてけり。この人は三の舟にのりぬべき人にて、学生職者、和漢の才ぬけたる人にて、廿一なる年の人とも人にをもはれず。すこしせいちいさやかなれど、容儀身体ぬけ出て、人にほめられければ、父の殿もなのめならずよき子もちたりと思はれけり。皇嘉門院にやしないたてられて、その御あとさながらつぎたる子にてありける。かヽる死をしてければ、やがていみにけがれて、その由院に申てありける程に、
「我よしなし。うけがたき人に生れたると云は、仏道こそ本意なれ。経べき家の前途はとげつ。出家してん」
と思ふ心ふかく付ながら、そのいもうとに女子のまたをなじく最愛なるをはしけり。いまの宜秋門院なり。それを昔の上東門院の例にかない、当今御元服ちかきにあり。八にならせ給、十一にて御元服あらんずらんに、これを入内立后せんと思ふ心ふかけれど、法皇も御出家の後なれど、丹後が腹に女王をはす、頼朝も女子あむなり、思さまにもかなはじと思て、又この本意とぐまじくば、たヾ出家をこの中陰のはてにしてんと思て、二心なく祈請せさせられけるに、又あらたにとげんずるつげのありければ、思ひのどめて、善政とをぼしき事、禁中の公事などをこしつつ、摂籙のはじめより諸卿に意見めしなどして、記録所殊にとりをこないてありけり。文治六年正月三日主上御元服なりければ、正月十一日によき日にて、上東門院の例に叶て、むすめの入内思のごとくとげられにけり。