愚管抄_六勝寺の建立
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愚管抄_六勝寺の建立
さてほりかはの院の御時、山の大衆うたへして日吉の御こしをふりくだしたりける。返々きくはいなりとて、後二条殿さたして射ちらして神輿にやたちなどしてありけり。友実といふ禰宜きずをかふむりなんどしたりければ、そのたヽりにて後二条殿はとくうせられにけり。
仁源理智房のざすといふは兄弟なり。をほみねなどとほりて、世にしるしあるものなれば、いのられけるに、「いでヽヽやめみせん」とて、よりましがふところよりくろ血をふたヽヽととりいだしたりければ、あらたなることにて、をそれをなしてのちは、理智房のざすもいのられずなりて、ついにうせ給にけるとぞ申つたへたる。
されば京極の大殿こそかへりならるべきを、二条どのヽ子にて知足院どのヽ大納言にてをはしけれに、内覧の宣旨をくだして藤氏の長者にて、関白もなくて堀河の院のほどはありけるなり。すゑになりて長治にぞ関白の詔くだりたりける。
さてすゑざまに鳥羽院十六年のヽちに、崇徳院に御譲位ありて、ひヽ子位につけて御覧ずるまで、白河院はをはしまして、大治に七十七にてぞ崩御ありける。
白河に法勝寺たてられて、国王のうぢでらにこれをもてなされけるより、代々みなこの御願をつくられて、六勝寺といふ白河の御堂、大伽藍うちつづきありけり。ほりかはの院は尊勝寺、鳥羽院は最勝寺、崇徳院は成勝寺、近衛院は延勝寺、これまでにてのちはなし。母后にて待賢門院、円勝寺をくわゑて六勝寺というなるべし。