愚管抄_公経の篭居と赦免
愚管抄_公経の篭居と赦免
この間に院の北面に忠綱とて、めしつかいて誠にさせることなき者の真名をだにしらぬを、人従者にて諸家の前駈が党也けり。そのかみ位の御時より候なれて、近くめしつかいけるゆゑに、内蔵頭殿上人までなされたるを御使にて、「太政入道かく申せば、大将になしたばむ事、このたびは不定なり」と云ことを、水無瀬殿にて仰つかはしたりけるは、御約束変改の議にはあらず、せめてもの事にて有けるを、其由をばつやヽヽといはで、偏に御変改の定に云ける間に、公経の大納言はあだに心うく思ひて、
「さ候はゞ片角に出家入道をもしてこそは候はめ。世に候者はたかきも賎も妻子と云事をかなしみ思ひ候は、実朝がゆかりの者に候へば、関東にまかりて命ばかりはいきても候へかし」など申てけり。
子にて中納言左衛門督実氏と云、詩作り歌よみ、めでたき誠の人なる、子など近習に候はせて持たる、かやうに云けるを其まヽに申て、君をおどしまいらせて、「実朝にうたゑんと申候」など云なして、やがて逆鱗有て公経大納言をばこめられにけり。これは建保五年十一月八日とかやきこへけり。この事は大将のあらそいばかりにはあらじ。ふかきやう有げなりけり。院の御あとを当今の外につがばやと思はせ給ふ宮だちなどをはします。すぢヽヽあるにや。はか※※しくはしらね共、院はもとよりかく位につけまいらせられしより、この内を御あとつぐべき君とはひしとをぼしめしたるになん。
さてやうヽヽこの事を実朝ききて大に驚て、
したしければうきことあるに我妻も子も実朝をたのみて身ばかりは命もいきよと内々に申たらんからに、さうなく勅勘に及びて、年ごろ申次して、しうとの信清の君ありしかど、公経の大納言の申次は又相違なかりき。今をいこめらるべき様なしと思て、
卿二位をひしと敵にとりて口惜き由を云ければ、卿二位驚さはぎて、同き六年二月十八日に申ゆるしてけり。ありし事はたヾ我も人も夢になして忘れなんと云ことにてぞ有ける。
其同二月廿一日に、実朝母は熊野へ参らんとて京にのぼりたりけるに、卿二位たびヽヽゆきてやうヽヽに云つヽ、尼なる者をはじめて三位せさせて、四月十五日にくだりにき。二位になして鎌倉の二位殿とて有けり。はじめたる例かなと人云けり。