愚管抄_兄弟の争い
兄弟の争い
九条殿の御子にて堀川の関白兼通、法興院殿兼家、このふたり次第たがひたることヾもにて、なかあしくおはしけり。兼通はあにながら弟の兼家にこえられて、おひたヽれたることは、さだめて様ありけん。おろヽヽ人のをもひならひたることは、冷泉・円融両帝は、此の人々のをひにておはしませば、をぢにて立太子の坊官どもになられけるに、あになれば先冷泉院のにて堀川殿は候はるヽほどに、いかなることかありけん、御気色よろしからで、東宮亮をとヾめられにけり。その処に法興院殿はなりて、やがて受禅のとき蔵人頭になりてこえ給にける也。大方兼家はよろづにつけてをしがらのかちたる人にて、蔵人頭も中納言までかけておはしけり。大納言大将にておはしけるときに、兼通は中納言にて有けるに、
円融院位の御時、一条摂政所労大事になりぬときヽて、仮名のふみを持てまいりて、鬼の間にたヽせ給たりけるとき、まいらせられたりけるをひきひろげて御覧じければ、「摂籙は次第のまヽに候べし」とかヽれたりけり。御母の中宮の御手にてありける。うせさせ給ぬるを思ひいでつヽこいまいらせさせ給けるおりふし、かヽるふみを御母の皇后にかヽせまいらせてもたれたりけるをまいらせて、いみじくかしこかりける人かなとよにも申けり。是を御覧じて、一条摂政の病かぎりになりにければ、左右なく中納言なる人に内覧を仰られて、大納言をへずして中納言より弟の大納言の大将をこえて内大臣になりて、天延二年に関白の詔くだりたりけるなり。
法興院殿は、是をやすからぬことに思ひゐられたりけるほどに、貞元二年に関白病をもりてすでにときこえけるに、とりつくろひて、法興院大入道殿は大将大納言にて内裏へまいられけるを、人の「このやまいのとぶらひに、これはおはするか」といひけるは、さもやとおもはれけるほどに、はやう参内といひけるをきヽて、病のむしろよりにわかに内へまいらんとてまいられける。とものものまで「こはいかに」とあやしみ思ければ、四人にかヽりてたヾまいりにまいられければ、内裏には「殿下の御出」とのヽしりけるを、弟の大将、「すでにしぬるときく人たヾいま参内ひが事ならん」とおもはれけるほどに、まことにまいられければ、さわぎていでられにけり。まいりて御前にさぶらひて、「最後に除目申をこなひ候んと思給てまいりて候也。やヽ人まいれ。ちかき公卿もよをせ、除目のあらんずるぞ」とありければ、あやしみ思て人々まいれりけるに、少々事ども申て、「右大将はきくわいのものに候。めされ候べき也。大将所望の人や候。はヾからず申せ」とたかくいはれけるに、たれかはさうなく申さん。をそれてありけるに、小一条大臣師尹は、九条殿の御弟なり。その人の子に済時とて中納言なる人ありけり。この人おもひけるやう、「このときならでは、いつかわれ大将をゆるされん、申てん」と思て、かさねて、「いかに大将所望の人の候はぬか、たヾ申せ」といはれけるたび、済時とたかく名のりいだしたりければ、「めでたしめでたし、とくヽヽ」とて、右大将に済時とかきてげり。執筆はたれにかありけん。それまでの日記なきにや。たヾし、まさしき除目は直廬にてをこなはれけるにや。
さて、「関白には頼忠其仁にあたりて候大臣にて候。異儀候まじ。ゆづり候也」とて、やがて関白詔申下されければ、主上は「こはいかに」と返々をそろしくおぼしめして、又申さるヽ事いたくひがことならずやおぼしめしけん、申まヽにをこなはれにけり。故皇后の御ふみに次第のまヽとありけるはたがひたれど、このつぎおなじ事ぞ、などや(お)ぼしめしけん。この冷泉・円融の御母は安子中宮とて、九条殿の御女なり。
大方は一条摂政病のあひだ、御前にあにをとヽ二人候て、このつぎの摂籙をことばをいだしつヽいさかひ論ぜられける。済時大将が日記には、各放言にをよぶなどかきたるとかや。最後除目はおぼつかなけれど、をこなはれたる様は疑なし。かやうの意趣、よのため人のため、国のおとろえ、道理のとほらぬことなれども、この頼忠三条関白、よにゆるされ、よき人にて、小野宮殿の子にて、その運のありけるが、かやうならではかなふまじき因縁どものかく和合するみちは、これも道理なる方侍べきにや。さて三条関白頼忠は貞元二年十一月十一日、関白の詔くだりて、一条院位につかせ給けるまで、十年歟おはしける程に、一条院践祚のとき、つひに大入道殿は、さうなき道理にて摂籙になられにければ、ちからをよばでありけり。
抑円融院の華山院に御譲位ありけり、大方はこの摂籙臣むまごにて、あにをとヽみなおはします、位を其の弟に譲せ給ふときは、やがてあにの皇子を太子に立て、東宮としてのみ、のちヽヽもおほく侍めり。冷泉院おりさせ給て、円融院位につかせたまへば、やがて冷泉院の御子花山院を東宮にたてまいらせて、花山院に又位をゆづらせ給ふときは、円融院太子一条院を東宮にはたてられけるになん。
此大入道殿は、あにの堀川殿の為にをひこめられてのちは、治部卿になされて、さて花山院と申は、御母は一条摂政のむすめ冷泉院の后也。この時法興院どのは、やがて摂籙せんと思はせ給けれども、猶関白如元と云仰にてありければ、法興院どのは右大臣にて、前日固関事をこなひ給けるに、関白如元ときヽ給て、やがて出仕をとヾめて、節会の内弁もをこなはれざりけるあひだに、つぎの人をこなふべかりけるを、左大臣と弟の大納言と、雅信・重信の二人は、服気にて出仕なかりけり。為光・朝光両大納言は、さはりを申ていでにければ、済時こそは、なを四大納言にてをこなひ侍けれ。この済時は大入道殿のためには、はヾからぬ人にこそ。それも道理のゆくところなれば、にくかるべきにあらず。
忠仁公、清和の御門日本国の幼主のはじめ、外祖にてはじめて摂政もをかれてのち、この摂政の家に帝の外祖外舅ならん大臣のあらんが、かならずかならず 執政の臣なるべき道理は、ひしとつくりかためたる道理にて、一度もさなきことはなし。此花山院には義懐中納言こそは、外舅なれば執政すべけれども、践祚の時は蔵人頭にこそ、はじめて四位侍従にて任じて、やがてとく中納言になりて、三条関白は如元とておはしけれども、国の政はをさえて義懐をこなひけるほどに、わづかに中一年にて不可思議のやういできにければいふばかりなし。