愚管抄_信頼・義朝の最期
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愚管抄_信頼・義朝の最期
義朝が方には郎等わづか二十人が内になりにければ、何わざをかはせん、やがで落て、いかにも東国へ向ひて今一度会稽を遂んと思ひければ、大原の千束ががけにかヽりて近江の方へ落にけり。正清もなをはなれずぐしたりけり。
此時内の護持僧にて山の重輸僧正候ける。六波羅に参て香染にて丑寅の方に向て、「南無叡山三宝」とて如法に立、ぬかをつきて拝みけるこそ、よにたのもしかりけれ。かやうの時はさる者の必候べきなり。
又清盛は大内裏に信頼が宿所に咋日かきてやりたる名簿を、そのまヽにて今日とりかへしつるとてこそわらひけれ。
信頼は仁和寺の五の宮の御室へ参りたりけるを、次の日五の宮よりまいらせられたりけるに、清盛は一家者どもあつめて、六原のうしろに清水ある所に平ばりうちており居たりける所へ、成親中将と二人をぐして前に引すへたりけるに、信頼があやまたぬよし云ける、よにヽヽわろく聞へけり。かう程の事にさ云ばやは叶べき。清盛はなんでうとて顔をふりければ、心ゑて引たてヽ六条河原にてやがて頚きりてけり。成親は家成中納言が子にて、ふようの若殿上人にてありけるが、信頼にぐせられてありける。ふかヽるべき者ならねば、とがもいとなかりけり。武士どもヽ何も何も程々の刑罰は皆行はれにけり。
さて義朝は又馬にもゑのらず、かちはだしにて尾張国まで落行て、足もはれつかれたれば、郎等鎌田次郎正清がしうとにて内海荘司平忠致とて、大矢の左衛門むねつねが末孫と云者の有ける家にうちたのみて、かヽるゆかりなれば行つきたりける。侍よろこぶ由にていみじくいたはりつヽ、湯わかしてあぶさんとしけるに、正清事のけしきをかざどりて、こヽにてうたれなんずよと見てければ、「かなひ候はじ。あしく候」と云ければ、「さうなし。皆存たり。此頚打てよ」と云ければ、正清主の頚打落て、やがて我身自害してけり。さて義朝が頚はとりて京へまいらせてわたして、東の獄門のあての木にかけたりける。その頚のかたはらに歌をよみてかきつけたりけるをみければ、
下つけは木の上にこそなりにけれよしともみへぬかけづかさ哉
となんよめりける。
是をみる人かやうの歌の中に、これ程一文字もあだならぬ歌こそなけれとのヽしりけり。九条の大相国伊通の公ぞかヽる歌よみて、おほくおとし文にかきなどしけるとぞ、時の人思ひたりける。