愚管抄_信西の最後
愚管抄_信西の最後
かヽりける程に平治元年十二月九日夜、三条烏丸の内裏、院御所にてありけるに、信西子どもぐしてつねに候けるを押こめて、皆うちころさんとしたくして、御所をまきて火をかけてけり。
さて中門に御車をよせて、師仲源中納言同心の者にて、御車よせたりければ、院と上西門院と二所のせまいらせたりけるに、信西が妻成範が母の紀の二位は、せいちいさき女房にてありけるが、上西門院の御ぞのすそにかくれて御車にのりにけるを、さとる人なかりけり。上西門院は待賢門院の一つ御腹にて、母后のよしとて立后もありけるとかや。さてかた※※殊にあひ思て、一所につねはおはしましけるなり。この御車には重成・光基・季実などつきて一本御書所へいれまいらせてけり。この重成は後に死たる所を人にしられずとほめけり。
俊憲・貞憲ともに候けるはにげにけり。俊憲はたヾやけ死んと思て、北のたいの縁の下に入てありけるが、見まはしけるに逃ぬべくて、焔のたヾもゑにもゑけるに、はしりいでヽそれもにげにけり。
信西はかざどりて左衛門尉師光・右衛門尉成景・田口四郎兼光・斎藤右馬允清実をぐして、人にしらるまじき夫こしかきにかヽれて、大和国の田原と云方へ行て、穴をほりてかきうづまれにけり。その四人ながら本鳥きりて名つけよと云ければ、西光・西景・西実・西印とつけたりける。その西光・西景は後に院にめしつかはれて候き。西光は、「たヾ唐へ渡らせ給へ。ぐしまいらせん」とぞ云ける。「出立ける時は本星命位にあり。いかにものがるまじ」とぞ云ける。
さて信頼はかくしちらして大内に行幸なして、二条院当今にておはしますをとりまいらせて、世をおこなひて、院を御書所と云所にすゑまいらせて、すでに除目行ひて、義朝は四位して播磨守になりて、子の頼朝十三なりける、右兵衛佐になしなどしてありけるなり。
さて信西はいみじくかくれぬと思ひける程に、猶夫こしかき人に語りて、光康と云武士これを聞つけて、義朝が方にて、求め出してまいらせんとて、田原の方へ往けるを、師光は、大なる木のありける、上にのぼりて夜を明さんとしけるに、穴の内にてあみだ仏たかく申す声はほのかに聞ゑたり。それにあやしき火どもの多くみゑければ、木よりおりて、「あやしき火こそみゑ候へ。御心しておはしませ」と、たかく穴のもとに云いれて、又木にのぼりてみける程に、武士どもせいヽヽと出きて、とかく見め(ぐ)りけるに、よくかきうづみたりと思けれど、穴口に板をふせなんどしたりける、見出してほり出たりければ、腰刀を持てありけるを、むな骨の上につよくつき立て死てありけるを、ほり出して頚をとりて、いみじがほに以て参りてわた(し)なんどしけり。男、法師の子ども数をつくして諸国へながしてけり。