愚管抄_信西と信頼・義朝の対立
愚管抄_信西と信頼・義朝の対立
この内乱たちまちにおこりて、御方ことなくかちて、とがあるべき者ども皆ほどヽヽに行はれにけり。死罪はとヾまりて久く成たれど、かうほどの事なればにや、行はれにけるを、かたぶく人もありけるにや。
さて後白河院は、仏法の御行ひことに叡慮に入たる方をは(し)まして、御位の程、大内の仁寿殿にて、懺法行ひなどせさせ給ひけり。
偏に信西入道世をとりてありければ、年比思ひとぢたる事にやありけん、大内はなきが如くにて、白河・鳥羽二代ありけるを、有職の人どもは、「公事は大内こそ本なれ。この二代はすてられてさたなし」と歎きければ、鳥羽院の御時、法性寺殿に、「世の事一向にとりざたせられよ」と仰られける手はじめに、その大内造営の事を先申ざたせんと企られけるをきこしめして、「世の末にはかなふまじ。この人は昔心の人にこそ」とて叡慮にかなはざりければ、引いられにけり。それを信西がはたヽヽと折を得て、めでたくめでたくさたして、諸国七道少しのわづらひもなく、さはヽヽとたヾ二年が程につくり出してけり。その間手づから終夜算をおきける。後夜方には算の音なりける、こゑすみてたうとかりける、など人沙汰しけり。さてひしと功程をかんがへて、諸国にすくなすくな とあてヽ、誠にめでたくなりにけり。其後内宴行ひて妓女の舞などして、こはいかにとおぼゆる程に沙汰しけり。
さて大内つねの御所にてありければ、御懺法などさへあしかるべき事にも候はずとて、行はせまいらせなんどしてありけるほどに、保元三年八月十一日におりさせ給て、東宮二条院に御譲位ありて、
太上天皇にて白河・鳥羽の定に世をしらせ給ふ間に、忠隆卿が子に信頼と云殿上人ありけるを、あさましき程に御寵ありけり。さる程に又北面の下臈どもにも、信成・信忠・為行・為康など云者ども、兄弟にて出きなどしければ、信頼は中納言右衛門督までなされてありけるが、この信西はまた我子ども俊憲大弁宰相・貞憲右中弁・成憲近衛司などになしてありけり。俊憲等才智文章など誠に人に勝れて、延久例に記録所おこし立てゆヽしかりけり。
大方信西が子どもは、法師どもヽ、数しらずおほかるにも、みなほどヽヽによき者にて有ける程に、この信西を信頼そねむ心いできて、義朝・清盛、源氏・平氏にて候けるを、各この乱の後に世をとらんと思へりける、義朝と一つ心になりて、はたと謀反をおこして、
それも義朝・信西、そこに意趣こぼりにけるなり。信西は時にとりてさうなき者なれば、義朝・清盛とてならびたるに、信西が子に是憲とて信乃入道とて、西山吉峰の往生院にて最後十念成就して決定往生したりと世に云聖のありしが、男にてさかりの折ふしにしありしをさヽへて、「むこにとらん」と義朝が云けるを、「我子は学生なり。汝がむこにあたはず」と云あらきやうなる返事をしてきかざりける程に、やがて程なく当時の妻のきの二位が腹なるしげのりを清盛がむこになしてけるなり。こヽにはいかでかその意趣こもらざらん。かやうのふかくをいみじき者もし出すなり。さらにさらにちから及ばぬ事なり。とてもかくても物の道理の重き軽きをよくヽヽ知て、ふるまひたがへぬほかには、なにもかなふまじきなり。それも一かたばかりにては、皆しばしは思ふさまにすぎらるヽなり、二つ三つさしあはせてあしき事の出きぬる上は、よき事もわろき事も其時ことは切るなり。信西がふるまひ、子息の昇進、天下の執権、この充満のありさまに、義朝と云程の武士に此意趣むすぶべしやは。運報のかぎり時のいたれるなり。又腹のあしき、難の第一、人の身をばほろぼすなり。よく腹あしかりけるものにこそ。