愚管抄_保元の乱
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愚管抄_保元の乱
さて新院は田中殿の御所にをはしましけるほどに、宇治の左府申かはしけむ、にはかに七月九日鳥羽をいでヽ白河の中御門河原に、千体のあみだ堂の御所ときこゆるさじき殿と云御所へわたらせ給にけり。それもわが御所にてもなきを、おしあけてをはしましにけり。さればよとすでに京の内のだいりに、関白、徳大寺の左府などいヽし人々、ひしとまいりつどいて、祭文かきてまいらせたる武士ども候て、警固してをわしましけるに、
悪左府は宇治にをわしける。宇治よりまいらんずらんとて、のぶかぬと云武士、「ひつ河のへんにまかりむかいて、うちてまいらせよ」とすでに仰られにけるに、あまりに俄なればをそくゆきむかいけるほどに、夜半に宇治より中御門御所へまいられにけり。
さて為義を、宰相中将教長としごろの新院の近習者也、それしてたびヽヽめして、為義すぐに新院へまいりぬときこゑて、子二人ぐしてまいりにけり。四郎左衛門よりかた・源八ためともなり。さて嫡子のよしともは、御方にひしと候けり。としごろこの父の中よからず。子細どもことながし。さて十一日議定ありて、世の中はいかにいかにとののしりけるに、為義は新院にまいりて申けるようは、「むげに無勢に候。郎従はみな義朝につき候て内裏に候。わづかに小男二人候。なにごとをかはし候べき。この御所にてまちいくさになり候ては、すこしも叶候まじ。いそぎヽ てただ宇治にいらせをはしまして、宇治橋ひき候て、しばしもやさヽへられ候べき。さ候はずは、ただ近江国へ御下向候て、かうかの山うしろにあて、坂東武士候なんず。をそくまいり候はヾ、関東へ御幸候て、あしがらの山きりふさぎ候なば、やうヽヽ京中はゑたヽへ候はじ物を。東国はよりよし・義家がときより為義にしたがはぬもの候はず。京中は誰も誰もことがらをこそうかヾい候らめ。せめてならば、内裏にまいりて、一あてして、いかにも成候はヾや」と申しけるを、
左府、御前にて、「いたくないそぎ(そ)。只今何事のあらんずるぞ。当時まことに無勢げなり。やまとの国ひがきの冠者と云ものあり。「吉野の勢もよをして、やがていそぎまいれ」と仰てき。今はまいるらん。しばしあいまて」としづめられければ、「こは以外の御事哉」とて庭に候けり。為義がほかには、正弘・家弘・忠正・頼憲などの候ける。勢ずくななる者ども也。
内裏には義朝が申あげヽるは、「いかに、かくいつともなくてさヽへたる。御はからいは候にか、いくさの道はかくは候はず。先たヾをしよせて蹴ちらし候ての上のことに候。為義、よりかた・為朝ぐしてすでにまいり候にけり。親にて候へども御方にかくて候へば、まかりむかい候はヾ、かれらもひき候なん物を。たヾよせ候なん」とかしらをかきて申けるに、十日一日に(こ)ときれず、みちのり法し、にはに候て、「いかにいかに」と申けるに、
法性寺殿御まへにひしと候て、目をしばたヽきて、うちみあげうちみあげみて物もいはれざりけるを、実能・公能以下これをまぼりてありけるほどに、十一日の暁、「さらば、とくをいちらし候へ」といヽいだされたりけるに、下野守義朝はよろこびて、日いだしたりける紅の扇をはらヽヽとつかいて、
「義朝いくさにあふこと何け度になり候ぬる。みな朝家をおそれて、いかなるとがをか蒙候はんずらんと、むねに先こたへてをそれ候き。けふ追討の宣旨かうぶりて、只今敵にあい候ぬる心のすヾしさこそ候はね」とて、
安芸守清盛と手をわかちて、三条内裏より中御門へよせ参りける。このほかには源頼政・重成・光康など候けり。ほどやはあるべき、ほの※※によせかけたりけるに、頼賢・ためとも勢ずくなにて、ひしとさヽへたりけるには、義朝が一のらうどう鎌田の次郎まさきよは、たびヽヽかけかへされけれども、御方の勢はかりなければ、をしまはして火かけてければ、新院は御なをしにて御馬にたてまつりて、御馬のしりにはむまのすけのぶざねと云者のりて、仁和寺の御むろの宮ゑわたらせ給ひけり。左大臣は、したはらまきとかやきてをちられけるを、誰が矢にかありけん、かほにあたりてほうをつよく射つらぬかれにければ、馬よりをちにけり。小家にかき入てけり。
この日やがて藤氏長者は如元と云宣下ありて、法性寺殿にかへしつけられにけり。上の御さたにてかくなる事のはじめなり。
筑後の前司しげさだと云し武士は、土佐源太しげざねが子なり。入道して八十になりしにあいて侍しかば、「我が射て候し矢のまさしくあたり申て候し」とて、かいなをかきいだして、「七星のはヽくろのかく候て、弓矢のみやうが一度もふかく候はず」とぞ申し。