愚管抄_任官の原則
愚管抄_任官の原則
さて公経の大納言はこの立坊の春宮大夫になりて、いみじくて候はるヽに、
大方この人は閑院の一家中に、東宮大夫公実の嫡子にたてヽ、ともゑの車などつたへたりける中納言左衛門督通季のすぢ也。中納言にて若死をして、待賢門院の時、外舅ふるまいもゑせず、実能・実行など云弟共の方に、大臣大将も出きにけり。通季の子公通は大納言まで成たれど、一大納言までにも及ばで、病有てうせぬ。其子に内大臣実宗は出きたり。大臣に未ならぬ方なりとてかたかりしかど、其時又これにまさりて大臣になるべき人もなかりしに、此公経院の近習奉公年ごろにもなりしかば、やうヽヽに申つヽ、中風の気有しかば、
実宗公内大臣になりにき。其子にて大将を申けり。且は実行の大相国息公教内大臣のそのかみの例也。「父の大臣ゆるされにし時、故摂政は三条の内府例は汝にこそとたしかに申候き」と申ければ、院もさもありなんと御約束ありけるを、
卿二位がをとこにて大相国入道、をと、を子にして師経大納言とてあるは、公経の下臈なるを、又申べき事なればとて大将に申けり。未闕もなき時かねごとを各申けり。世の末のならひ也。大方は官はぬしの心にて、させるとがなければ死闕をこそまつを、この世にはなりつれば辞せよとて、人の心をゆかして、あまねき政よかるべしとてあれば、この風儀に入ぬれば、かねごとのかく大事にもなるにや。