愚管抄_二条天皇崩御
from 愚管抄
愚管抄_二条天皇崩御
二条院は御出家の義にて、仁和寺の五宮へわたりはじめておはしけるを、王胤なを大切なりにて、とりかへして遂に立坊ありけり。その御むつびにて五の宮は位の御時、この二条内裏の辺に三条坊門烏丸に壇所手づからつくりて、あさゆふにひしと候はせ給ければ、万機の御口入もありけり。さて六宮の天王寺別当とりてならせ給て、人々いはれさせ給ひけり。
さて応保二年三月七日、又経宗大納言はめしかへされて、長寛二年正月廿二日には大納言にかへりなりて、後には左大臣一の上にて多年職者にもちゐられてぞ候ける。この経宗の大納言はまさしき京極大殿のむまごなり。人がら有て祖父の二位大納言経実には似ず、公事よくつとめて職者がらもありぬべかりければ、知足院殿の知足院にうちこめられて腰いておはしける、人まいりてつねに世の事ならひまいらせければ、法性寺殿の方にはいよヽヽあやしみ思ひけり。世には、「二条院の外舅なり。摂籙もや」など云和讒ども有けれど、いまだこの科には及ばずぞ有ける。大方世の人の口のにくさ、すこしもよりくるやうにのみ人は物を云なり。返々これも心うべき事なり。又惟方はのちに永万二年三月にぞ召かへされたりける。
かくてすぐる程に法性寺殿のおとむすめ入内立后ありて、中宮とておはしましヽかども、なのめならぬおぼへながら、猶御懐姙はゑなかりけり。さて二条院は又永万元年六月に御病重くて、二歳なる皇子のおはしましける、御母はたれともさだかにきこゑず、この皇子に御譲位ありて、七月廿二日に御年廿三にてかくれさせ給ひにけり。