愚管抄_二条天皇の内裏脱出
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愚管抄_二条天皇の内裏脱出
さて内々この(事)しかるべき人々相議定して、「清盛熊野より帰てなにとなくてあれば、一定義朝も信頼もけふヽヽと思ふ様共おほからん。用心の堅固にては物のたかくなるもあやむる事なり。すこし心をのべてこそよからめ」にて、「清盛が名簿を信頼がりやるべき、そのよし子細を云へ」とてやりければ、
清盛はたヾ、「いかにもいかにもかやうの事は、人々の御はからひに候」と云ければ、内大臣公教の君ぞまさしくその名簿をばかきたりける。それを一の郎等家定に持せて云やりけるやうは、「かやうにて候へば、何となく御心おかれ候らん。さなしとておろかなるべきには候はねど、いかにもいかにも御はからひ御気色をばたがへまいらせ候まじきに候。そのしるしにはおそれながら名簿をまいらせ候なり」といはせたりければ、
これはこの行幸の日のつとめてにてありければ、返事には、「返々よろこびて承り候ぬ。このむねを存候て何事も申承候べし。尤本意に候」と云たりければ、「よしヽヽ」とてぞ。有けるしたくのごとくにしたりけり。
夜に入て惟方は院の御書所に参りて、小男にて有けるが直衣にくヽりあげて、ふと参りてそヽやき申て出にけり。車は又その御料にもまうけたりければ、院の御方事はさたする人もなく、見あやむ人もなかりければ、覚束なからず。
内の御方にはこの尹明候なれたる者にて、むしろを二枚まうけて、莚道に南殿の廻廊に敷て、一枚を歩ませ給ふ程に今一枚をしきヽヽして、内侍には伊予内侍・少輔内侍二人ぞ心ゑたりける。これら先しるしの御はこ宝剣とをば御車に入てけり。支度の如くにて焼亡の間、さりげなしにてやり出してけり。さて火消て後、信頼は、「焼亡は別事候はずと申させ給へ」と、蔵人して伊予内侍に云ければ、「さ申候ぬ」とて、この内侍どもは小袖ばかりきて、かみわきとりて出にけり。尹明はしづかに長櫃をまうけて、玄象、すヾか、御笛のはこ、だいとけいのからびつ、日の御座の御太刀、殿上の御倚子などさたし入て、追ざまに六波羅へまいれりければ、武士どもおさへて、弓長刀さしちがへさしちがへしてかためたるに、「誰かまいらせ給ふぞ」と云ければ、たかく「進士蔵人尹明が御物持せて参て候なり」と申させ給へ」と申たりければ、やがて申て、「とく入れよ」とて参りにけり。ほの※※とする程なりけり。やがて院の御幸、上西門院・美福門院、御幸どもなり合せ給てありけり。大殿関白相ぐしてまいられたりけり。大殿とは法性寺殿なり。
関白とはその子、十六歳にて保元三年八月十一日二条院受禅の同日に、関白氏長者皆ゆづられにける。あなわかやと人皆思ひたりけり。この中の殿とぞ世には云める。又六条摂政、中院とも申やらん。この関白は信頼が妹にむことられて有ければ、すこし法性寺殿をば心おかんなど云こと有けるにや。
六波羅にて院・内おはしましける御前にて人々候けるに、三条内府清盛方を見やりて、「関白まいられたりと申。いかに候べきやらん」と云たりければ、清盛さうなく、「摂籙の臣の御事などは議に及ぶべくも候はず。まいられざらんをぞわざとめさるべく候。参らせ給ひたらんは神妙の事にてこそ候へ」と申たりける。あはれよく申物かなと聞く人思ひたりけり。
その夜中には京中に、「行幸六波羅へなり候ぬるぞ+」とのヽしらせけり。山の青蓮院座主行玄の弟子にて、鳥羽院の七宮、法印法性寺座主とておはしける、知法のおぼゑありければにや、其時仏眼法うけ給りて修せられける白河房へも、夜半にたヽきて、「行幸六波羅へなり候。又よくヽヽいのり申させ給へ」と云御使ありけり。