愚管抄_乱と治の天皇擁立
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愚管抄_乱と治の天皇擁立
遠くは伊勢大神宮と鹿島の大明神と、近くは八幡大菩薩と春日の大明神と、昔今ひしと議定して世をば持たせ給ふなり。今文武兼行して君の御後見あるべしと、この末代、と移りかう移りし以てまかりて、かく定められぬる事は顕(あらは)なることぞかし。
それに漢家の事はただ詮にはその器量の一事極まれるをとりて、それが打ち勝ちて国王とは成ることと定めたり。この日本国は初より王胤はほかへ移ることなし。臣下の家又定め置かれぬ。そのままにて如何なる事出で来れども今日まで違はず。百王のいま十六代残りたるほどは、このやうはふつと違ふまじき也。ここにかかる文武兼行の執政を作り出だして、宗廟社稷の神の参らせられぬるを、憎みそねみ思し召しては、君(きみ)は君にて得(え)おはしますまじきなり。
日本にも臣の君を立つる道げにげにと二つあんめり。一つには先づ清盛公が後白河院を悪ろがり参らせて、その御子(=高倉)、御孫(=安徳)にて世を治めんとせしやう、木曾が又一戦ひに勝ちて、君を押し込め参らせし筋、このやうは君を立つとは申すべくもなけれども、武士が心の底に、世を知ろしめす君を改め参らするにてある也。されば世を乱す方にて立て参らせ、世を治むる方にて参らする、二つのやう也。乱す方は謀反の義なり。それは末通(すゑとほ)る道なし。
いま一つの国を治むる筋にて立て参らするは、昭宣公の陽成院を降ろし参らせて、小松の御門を立て参らせ、永手大臣・百川宰相と二人して光仁天皇を立て参らせし、武烈失せ給ひて継体天皇を臣下どもの求め出で参らせし、これらは君の為世の為に、一定この君悪ろくて代はらせ給ふべしと、その道理定まりぬ。この君出で来給ひて、この日本国は始終目出度かるべしと云ふ道理のひしと定まりしかば、これによりて神明の冥(みやう)には御沙汰あるに代はり参らせて(=神々に代つて臣下が)、臣下の君を立て参らせしなり。されば過(あやま)たずこの御門の末こそはみな継がせ給ひて、今日までこの世は持たへられて侍れ。さはさはと、この二つのやうは侍るぞかし。