愚管抄_九郎義経の謀反
愚管抄_九郎義経の謀反
かやうにて今は世の中をち居ぬるにやとをもいしほどに、元暦二年七月九日午時ばかりなのめならぬ大地震ありき。古き堂のまろばぬなし。所々のついがきくづれぬなし。すこしもよはき家のやぶれぬもなし。山の根本中堂以下ゆがまぬ所なし。事もなのめならず竜王動とぞ申し。平相国竜になりてふりたると世には申き。法勝寺九重塔はあだにはたうれず、かたぶきてひえんは重ごとに皆をちにけり。
そのヽち九郎は検非違使五位尉伊与守などになされて、関東が鎌倉のたちへくだりて、又かへり上りなどして後、あしき心出きにけり。さて頼朝は次第に、国にありながら、加階して正二位までなりにけり。さて平家知行所領かきたてヽ、没官の所と名付て五百余所さながらつかはさる。東国・武蔵・相模をはじめて、申うくるまヽにたびてけり。
義仲京中にいりてとりくびらんとせしはじめに、頼盛大納言は頼朝がりくだりにけり。二日の道こなたへ頼朝はむかいて如父もてなしける。又頼朝がいもうとヽ云女房一人ありけるを、大宮権亮能康と云ふ人の妻にして年来ありけり。このゆへによしやす又妻ぐして鎌倉へくだりにき。かやうにしかるべき者どもくだりあつまりて、京中の人の程ども何もよくヽヽ頼朝しりにけり。
さて頼朝がかはりにて京に候この九郎判官、たちまちに頼朝をそむく心をおこして、同文治元年十一月三日、頼朝可追討宣旨給りにけり。人々に被仰合ければ、当時のをそれにたへず皆可然と申ける中に、九条右府一人こそ、追討宣旨など申事は依其罪過候事也、頼朝罪過なにごとにて候にか、いまだ其罪をしらず候へば、とかくはからい申がたき由申されたりけれ。この披露の後、頼朝郎従の中に土佐房と云ふ法師ありけり、左右なく九郎義経がもとへ夜打にいりにけり。九郎をきあいてひしヽヽとたヽかいて、その害をのがれにけれど、きすさへられてはか※※しく勢もなくて、宣旨を頚にかけて、文治元年十一月三日、西国方へとて船にのりて出にけりときこへしに、その夜京中ことにさはぎけり。人ひとりしちにやとらんずらんと思ひけれどたヾぞ落にける。川尻にて頼朝が方の郎従どもをいかヽりて、ちり※※にうせにけり。十郎蔵人行家とてありしは木曾義仲にぐしたりし。それと又ひとつにてありしもはなれて、北=石蔵(きた=いはくら)にてうたれてその頚なんど云者きこへき。九郎はしばしはとかくれつヽありきける。无動寺に財修とてありける堂衆が房には、暫かくしをきたりけるとのちに聞へき。ついにみちのくにの康衡がもとへ逃とをりて行にける。をそろしき事なりと聞へしかども、やすひらうちてこの由頼朝がり云けるをば、「それにもよらじ、わろきことしたり」とぞかの国にもいひける。