愚管抄_上皇政治の出現
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愚管抄_上皇政治の出現
さて後三条院(=後冷泉の次)久しくおはしますべきに、事をば兆(きざ)して(=政治を始めて)四十にて失せおはします事ぞおぼつかなけれど、それはむずと(=急に)世の衰ふべき道理の現はるるなるべし。後三条院御心に思(おぼ)し召す程のありけむは(=御考へが実現したら)、いかに目出度(めでた)かりけむ。
さて、とも言へかくも言へ、時にとりて、世を知ろしめす君と摂籙臣(=摂政)とひしと一つ御心にて、違ふことの返す返す侍るまじきを、別に院の近臣と云ふ物の、男女につけて出で来ぬれば、それが中にいて、いかにもいかにもこの王臣の御中を悪しく申すなり。あはれ俊明卿まではいみじかりける人哉。ここを詮(=要点)に<して>は君の知ろしめすべきなり。
今は又武者の出で来て、将軍とて君と摂籙の家とを押し籠めて世を取りたることの、世の果てには侍るほどに、此武将(=源氏平家)をみな失ひ果てて、誰にも郎従となるべき武士ばかりになして、その将軍には摂籙の臣の家の君公(=頼経)をなされぬる事の、いかにもいかにも宗廟神の、猶君臣合体して昔に帰りて、世をしばし治めんと思し召したるにて侍れば、その始終を申し通し侍るべき也。されば後三条院は四年、これよりの事を細かに申すべし。
この後は事変はりて位降りて後、世を知らんと思し召し企てて、我(=後三条)はとく失せさせ給しかど、白河院七十七まで世を知ろしめしき。これは臣下(=藤原氏)の御振る舞ひになれば久しくおはしますなり。次に鳥羽院又五十四までおはしますべきに、又後白河五代の御門(みかど)の父祖にて、六十六までおはします。
太上天皇世を知ろしめしての後、その中の御子・御孫の位の久しさ疾(と)さのことは、無益(むやく)なれば申すに及ばず。わざとせんやうに程なく代はらせ給ふめり。その次にこの院(=後鳥羽院)の御世に成りて、すでに後白河院失せさせおはしまして後、承久まで既に廿八年になり侍りぬる也。