愚管抄_一の谷合戦
愚管抄_一の谷合戦
さて平氏宗盛内大臣は、我主とぐしたてまつりて、義仲と一にならんずるしたくにて、西国より上洛せしめて、福原につきてありける程に、同寿永三年二月六日やがて此頼朝が郎従等をしかけて行むかいてけり。それも一の谷と云ふ方に、からめ手にて、九郎は義経とぞ云ひし、後の京極殿の名にかよひたれば、後には義顕とかへさせられにき、この九郎その一の谷より打いりて、平家の家の子東大寺やく大将軍重衡いけどりにして、其外十人ばかりその日打取てけり。教盛中納言の子の通盛三位、忠度など云者どもなり。さて船にまどいのりて宗盛又をちにけり。
其後やがて寿永三月四月十六日に、崇徳院并宇治贈太政大臣宝殿つくりて社壇春日河原保元戦場にしめられて、範季朝臣奉行して霊蛇出きたり。又預になされたる神祇権大副卜部兼友夢相ありなんどきこへき。この事はこの木曾が法住寺いくさのこと、偏に天狗の所為なりと人をもへり。いかにもこの新院の怨霊ぞなど云事にて、たちまちにこの事出きたり。新院の御をもい人の烏丸殿とてありし、いまだいきたりければ、それも御影堂とて綾小路河原なる家につくりて、しるしども有りとてやうヽヽのさたどもありき。