愚管抄_この書執筆の意図
from 愚管抄
愚管抄_この書執筆の意図
これを思ふに、中々かやうの戯言(ざれごと=この本)にて書き置きたらんは、いみじ顔ならん学生(がくしやう)達も、心の中には心得易くて、一人笑みして才学にもしてん物をと思ひ寄りて<なり>。中々本文(=古典)など頻(しき)りに引きて<も>才学気色もよしなし(=役立たない)。誠(まこと)にも、つやつやと(=私は全く何も)知らぬ上に、我にて人を知るに、物の道理をわきまへ知らん事はかやう(=このやり方)にてや、少しもその後世に残るべきと思ひて、これは書きつけ侍るなり。
これだにも言葉こそ仮名なる上に、むげに可笑しく耳近く侍れども、猶心は上に深く籠りたること侍らんかし。それをもこの可笑しく浅き方にて賺(すか)し出だして、正意道理をわきまへよかしと思ひて、ただ一筋をわざと耳遠き事をば心詞(こころことば)に削(けづ)り捨てて、世の中の道理の次第に作り変へられて、世を守る、人を守(も)る事を申し侍るなるべし。もし万が一にこれに心付(づ)きて「これこそ無下(=ひどい)なれ、本文(=古典)少々見ばや」など思ふ人も出でこば、いとど本意に侍らん。
さあらん人はこの申し立てたる内外典の書籍あれば、必ずそれを御覧ずべし。それも寛平遺誡、二代御記、九条殿の遺誡、又名誉の職者の人の家々の日記、内典には顕密の先徳たちの抄物などぞ、すこし物の要には適(かな)ふべき。それらを我が物に見たてて、もしそれに余る心付きたらん人ぞ、本書(=古典)の心をも心得解くべき。左右なく深(ふか)裁(た)ちして本書(=古典)より道理を知る人は定めて侍らじ。
むげに軽々(かろがろ)なる<言葉>どもの多くて、はたと・むずと・きと・しやくと・きよとなど云ふ事のみ多く書きて侍る事は、和語の本体にてはこれが侍るべきと覚(おぼ)ゆるなり。訓の読みなれど、心(=意味)をさし詰めて字尺(=漢字の解釈)に表はしたる事は、猶心の広がぬなり。真名の文字にはすぐれぬ、言葉のむげに只事なるやうなる言葉こそ、日本国の言葉の本体なるべけれ。
その故(ゆへ)は、物を言ひ続くるに心の多く籠りて時の景気を表はすことは、かやうの言葉のさはさはと(=明瞭に)知らする事にて侍る也。児女子が口遊(くいう)とてこれらを可笑しきことに申すは、詩歌の誠の道を本意に用ゐる時のことなり。愚痴無智の人にも物の道理を心の底に知らせんとて、仮名に書きつくるを、法(=法則の理解)の事には、ただ心を得ん方の真実の要(かなめ)を一つ取るばかりなり。この可笑し事(=この本)をば、ただ一筋にかく心得て見るべきなり。
その中に代々の移り行く道理をば、心に浮かぶばかりは申しつ。それを又押し総(ふさ=まとめる)ねてその心の詮(せん=要点)を申し表はさんと思ふには、神武より承久までのこと、詮をとりつつ、心に浮かぶに従ひて書きつけ侍りぬ。