愚管抄_【比叡山】
愚管抄_【比叡山】
上層部
大衆(教団の主体)
堂衆(巨大な機構を維持する。俗人に等しい)
さて此日本国の王臣武士のなりゆく事は、事がらはこのかきつけて侍る次第にて、皆あらはれまかりぬれど、これはをりをり道理に思ひかなへて、然も此ひが事 の世をはかりなしつるよと、其ふしをさとりて心もつきて、後の人の能々つヽしみて世を治め、邪正のことはり善悪の道理をわきまへて、末代の道理にかなひ て、仏神の利生のうつは物となりて、今百王の十六代のこりたる程、仏法王法を守りはてんことの、先かぎりなき利生の本意、仏神の冥応にて侍るべければ、そ れを詮にてかきをき侍なり。
→さて、この日本国の王臣・武士のあり方がしだいに移り行くことは、このように事柄を書きつけてきたような次第で、すべて明白になったのであるが、この書ではその折々の道理に考えを合わせてしかもこんな誤ったことが世を滅ぼそうとして事をたくらんだのだと人々にその節々を理解させ心を行き届かせて、のちの人がよくよくつつしんで世を治め、邪と正との道理、善と悪との道理をわきまえて末の世の道理にかなうようにし、仏や神のめぐみをうける器となるようにとの考えて書いたのである。さらに今百王のうちまだ十六代が残っているので、その間、仏法が王法を守りおおせるであろうということが、このさき仏や神が人を救おうとする限りない願いのあらわれなのであって、仏や神の眼に見えない感応であろうと思われる。そこでそれを究極の眼目として書いておいたのである。