愚管抄_「中小別当」惟方
愚管抄_「中小別当」惟方
かくて二条院当今にておはしますは、その十二月廿九日に、美福門院の御所八条殿へ行幸なりてわたらせ給ふ。後白河院をばその正月六日、八条堀河の顕長卿が家におはしまさせけるに、その家にはさじきのありけるにて、大路御覧じて下すなんどめしよせられければ、経宗・惟方などさたして堀河の板にて桟敷を外よりむずヽヽと打つけてけり。かやうの事どもにて、大方此二人して世をば院にしらせまいらせじ、内の御沙汰にてあるべし、と云けるをきこしめして、院は清盛をめして、「わが世にありなしはこの惟方・経宗にあり。これを思ふ程いましめてまいらせよ」となくヽヽ仰ありければ、その御前には法性寺殿もおはしましけるとかや。清盛又思ふやうどもヽありけん。忠景・為長と云二人の郎等して、この二人をからめとりて、陣頭に御幸なして御車の前に引すへて、おめかせてまいらせたりけるなど世には沙汰しき。その有さまはまがヽヽしければかきつくべからず。人皆しれるなるべし。さてやがて経宗をば阿波国、惟方をば長門国へ流してけり。信西が子どもは又かずを尽してめしかへしてけり。これらからむることは永暦元年二月廿日の事なり。これら流しける時、義朝が子の頼朝をば伊豆国へ同くながしやりてけり。同き三月十一日にぞ、この流刑どもは行はれける。惟方をば中小別当と云名付て世の人云さたしけり。
さてこの平治元年より応保二年まで三四年が程は、院・内、申し合つ、同じ御心にていみじくありける程に、主上をのろひまいらせけるきこゑありて、賀茂の上の宮に御かたちをかきてのろひまいらする事見あらはして、実長卿申たりけり。かうなぎ男からめられたりければ、院の近習者資賢卿など云恪勤の人々の所為とあらはれにけり。さてその六月二日資賢が修理大夫解官せられぬ。
又時忠が高倉院の生れさせ給ひける時、いもうとの小弁の殿うみまいらせけるに、ゆヽしき過言をしたりけるよし披露して、前の年解官せられにけり。かやうの事どもヽゆきあいて、資賢・時忠は応保二年六月廿三日に流されにけり。
さて長寛二年四月十日関白中殿をば清盛おさなきむすめにむことり申て、北政所にてありけり。
さて主上二条院世の事をば一向に行はせまいらせて、押小路東洞院に皇居つくりておはしまして、清盛が一家の者さながらその辺にとのゐ所どもつくりて、朝夕に候はせけり。いかにもいかにも 清盛もたれも下の心には、この後白河院の御世にて世をしろしめすことをば、いかヾとのみおもへりけるに、清盛はよくヽヽつヽしみていみじくはからひて、あなたこなたしけるにこそ。我妻のおとヽ小弁の殿は、院のおぼゑして皇子うみまいらせなどしてければ、それも下に思ふやうどもありけん。