悪王出現
from 愚管抄
悪王出現
さて仁賢の太子に武烈天皇と申、いふばかりなき悪王のいできて、十にて位につき、十八までおはしましければ、群臣なげくより外の事なかりけるほどに、皇子もまうけたまはでうせ給にければ、国王のたねなくて世のなげきにて、臣下あつまりて越前国に応神天王の五世の皇子おはしましけるを、もとめいだしまいらせて位につけまいらせたる。継体天王と申てこのさき※※よりは久しく廿五年たもち給て、としごろゐなかにて民の様をもよくヽヽしろしめして、この御時ことに国もよくおさまりて、皇子三人みな次第に位につかせ給にけり。安閑・宣化・欽明なり。あに二人はほどもなし。欽明天皇の御時はじめて仏法この国に渡て、聖徳太子、すゑに御むまごにてむまれ給しより、この国は仏法にまぼられて今までたもてりとぞみへ侍る。
仁徳天皇八十七年たもたせ給てのち、履中より宣化まで十二代、無下に位の御治天下程なし、允恭ぞ四十二年久しくおはします。此十二代の間には安康・武烈なのめならずあしき御代なり。顕宗・仁賢は仁徳と宇治太子との例をおぼしめしてめでたけれどまた程なし。これをはかりみるに、一期一段のをとろふるつぎめにこそ。人代のはじめ成務まで、さわヽヽと皇子々々つがせ給て正法とみえたり。仲哀ははじめて国王のむまごにてつがせ給ふ。神功皇后、又開化の五世の女帝はじまりて、応神天皇いでおはしまして、今は我国は神代の気分あるまじ、ひとへに人の心たヾあしにておとろへんずらんとおぼしめして、仏法のわたらんまでとまもらせ給けれども、代々の聖運ほどなくて、允恭・雄略など王孫もつヾかず、又子孫をもとめなどして、其後仏法わたりなどして国王ばかりは治天下相応しがたくて、聖徳太子東宮には立ながら、推古天皇女帝にて卅六年をおさめおはしまして、崇峻天皇ころされ給ふことなどいできながら世をおさめ、仏法をうけよろこばざりし守屋の臣をば、聖徳太子十六にて蘇我大臣と同心して、たヽかひうしなひて仏法をおこしはじめて、やがていまにいたるまでさかりなり。