峠_補遺
峠_補遺
正直、映画はいまいちだった。
幕府が消滅したのに、何故彼らは戦ったのだろう。西軍も東軍も。そして長岡藩に至っては「中立」だったのに?(余談だが、これが武装中立なのか? 継之助の知己の外人がスイス人だったことも関係?)やはり革命は血を伴うのか?
そして、この小説では、彼が主人公だから、主人公というしてのチート能力もある〔という触れ込み…長岡という小藩の宰相になっただけでも非常時ならではの大出世なのだが、彼には小さすぎた。日本の宰相であったなら…みたいな書き方〕が、そういう脚色や予想のようなものを取り払って事実だけを見たとき、間違いなく彼の舵取りのせいで長岡藩は戦争に突入し、激戦で多くの藩士が〔恐らく多数の無抵抗の非戦闘員も〕殺戮されたのだ。それなのに恨みを買うどころか、郷土の偉人・英雄のような扱いなのか?本当に?
「この河井継之助は何者か?」「七万四千石という小藩の一家老にすぎぬではないか。長岡の藩札と同じだ。おなじ越後でも藩外の小千谷にゆけばもう通用しない。」「惜しいことだ」みずからを、そういった、その境遇さえ変えれば一国一天下を動かしうる器才であると自分でも自分をおもっているのであろう。
当時の日本に3門しかなかったガトリングを2門有したのは、彼の先見の明だったにしてもだ。いったい何のために戦っていたのか、疑問というか…釈然としないというか。
もしかして勝機が本当にあったのだろうか?何か知らんうちに話し合いが成立もせずにつぶれて、悲惨な敗戦以外、全く選択肢もなくなってたけど?
小千谷談判も、さぞかし見どころのある応酬が繰り広げられるのかと思いきや、取り付く島もないだけだった。
なんか、西軍も始めは人がいなくて、苦戦していたというか、ギリギリのところを運よく勝てていた?みたいな…お金も武器も人も劣勢だったような書き方だった。
学校の歴史の時間に、政府軍は旧幕府軍に対し、圧倒的な近代装備と軍隊で圧勝した…みたいな感じだったが、ガトリング砲の一件だけでも、決してそういう簡単な構図じゃなかったことはわかったが。なんたって最新兵器を多数購入していたのだ。
しかし、「解説」を見て納得
河井継之助は維新の内乱のうち地方戦争と見られがちな北越戦争の、それも廃車になった側の越後長岡の執政で、おまけに中途戦死して、後世の功績というベキほどのものはあとかたも残していない。
しかし、維新史好きの人のあいだでは、北越戦争が維新の内乱中もっとも激烈な戦争であったことと共に、その激烈さを事実上ひとりで引き起こした河井継之助の名はよく知られていた。
だが、小説という形式におさめにくい人物である。その思想と行動には一見矛盾する要素が強く、したがって首尾一貫した人物像がつかみにくい。合理的な解釈や、歴史の展開のメカニズムの呼応を拒否するようなところもある。(だから、複雑な小説になりうる)
自由人である河井継之助はいろいろなことを思えても、長岡藩士としての彼は、藩士として振舞わなければならない、そうい立場絶対論といったふうの自己規律、または制約が、河井の場合には非常に強烈だったろうと思うんです。……結局、かれは飛躍せざるをえない。思想を思想としてつらぬかずに、美意識に転化してしまうわけです。武士道に生きたわけです。(司馬)
〔『峠』は昭和41年11月から43年5月まで「毎日新聞」に連載された。この前には『竜馬がゆく』。やがて『坂の上の雲』に連なってゆくのだが、〕『峠』の雛型ともいうべき作品に昭和38年12月に発表された『英雄児』と題する短編がある。
地方の小藩では容れきれない河井継之助の器量を語ったものだた、同時に、作者は主人公が自分の育てた藩の武力を信じすぎて、頭脳ではよくわきまえていた時勢の動きにそむく行動にでたことをなげいている。「何の得るところもない戦さに、かれは長岡藩士のすべてを投入」したのだ。そのため長岡藩は荒廃に帰し、民衆は死後の河井まで怨嗟した。
その結果「墓碑が出来たとき、墓石に鞭を加えにくる者が絶えなかった」「墓碑はその後、何者かの手で打ち砕かれた」と作者は語っている。そしてこの作品は「英雄というのは、時と置きどころを天が誤ると、天災のような害をすることがあるらしい」という言葉で結ばれている。
ところが、『峠』では、こういう英雄児の奇形ぶりの批判は蔭に退いているのだ。逆に言えば、『英雄児』における作者の合理主義的な主人公批判をある程度犠牲にすることによって、武士道倫理の美しさが展開されているのである。
史書によると、長岡藩の農民は、官軍でなく藩に対して一揆反乱を起こしたらしい。
そして藩軍は、たとえば今町を奪回した時、官軍に挑発されていた藩民を殺戮したという。だが、この種のことは、『峠』ではあまり語られないで終わっている。
戦争の描写そのものも、短編の『英雄児』が悲惨さを具体的に描いているのに対し、『峠』のそれは短くて象徴的になってしまっている。
そして作者は、河井が死後にまで自藩の者にうらまれた話は省いてしまっている。
逆に、「その死にあたって自分の下僕に棺をつくらせ、庭に火を焚かせ、病床から顔をよじって終夜それを見つめつづけていた」ほどに、自己の生と死まったく客体として処理しえた彼のカッコよさを強調して、作品を終えている。
そう、このラストがかっこいいのだ。これを際立たせるために他がパッとしないのかもしれない。強烈なエピソード(恨まれる部分)も省く必要があった。
「松蔵、火を熾んにせよ」と継之助は一度だけ、声をもらした。そのあと目を据え、やがあては自分を焼くであろう闇の中の火を見つめつづけた。夜半風がおこった。8月16日午後8時、死去。 ←かっこいい