天武天皇
from 愚管抄
天武天皇 
十五年 元年壬申。
諱大海人。舒明第三子にて天智同母。
大和国飛鳥浄御原宮。
天智七年に東宮とす。天智崩御の後、位を譲り給と云へども、請取給はず。をして、吉野山に入篭給へり。其を猶大友皇子、軍を発しおそひ奉らるべしと御むすめ。大友皇子の妃なり。ひそかにつげ給へりければ、「こはいかに我は我とかく振舞に」とや思食けむ。伊勢の方へ逃下て、太神宮に申させ給て、美濃・尾張の軍を催て、近江にて戦ひ勝給て、御即位ありて世を治給へり。其軍の事ども人皆知れり。
又大津の皇子は御門の御子也。世の政をし給ふと云へり。此皇子からの文を好て、始て詩賦を作り給ふ人也。
左大臣大錦上蘇我赤兄臣。元年八月被配流。
右大臣大錦上中臣金連。元年八〔月〕被誅。
大納言蘇我果安。元年八月坐事被誅。大納言起自此。于時五人云々。
又年号あり。朱雀一年。元年壬申。白鳳十三年。元年壬申。支干同前。年内改元歟。朱鳥八年。内一年。
天武十年に太子草壁の皇子を東宮とす。
大友の皇子合戦の後、左右大臣等被誅了。其後大臣不見也。
十年 元年丁亥。
諱莵野。天智第二娘。天武の妻后也。母越智娘。蘇我大臣山田石川麿女也。
大和国藤原宮。
太政大臣浄広一高市皇子。天武第三息。四年七月五日任。十年七月十三日薨。
中納言起自此云々。
此外右大臣大納言在之。
東宮おはしませども、先御母の后位に即給ぬ。さて此東宮の御子軽皇子を又東宮に立給ぬ。
此御時年号あり。
此御時の始に大津皇子謀反の事ありて被殺給にけり。
朱鳥ののこり七年。大化四年。元年乙未。
うづえ踏歌など云事此御時はじまる。
大化三年に位を東宮に譲りたてまつりて、太上天皇の尊号を給はり給ふ。是より始也。其後四年をはします。