【愚管抄】道理物語
【愚管抄】道理物語
①近世になって史書としての価値を認められた。
②主語と述語の関係が不分明、挿入句が多く、ねじれてゆく文体は読みづらい ←口述筆記?
・「平氏が方には左衛門佐重盛清盛 嫡男・三河守頼盛清盛舎弟、この二人こそ大将軍の誠にたヽかいはしたりけるはありけれ。重盛が馬をいさせて、堀河の材木の上に弓杖つきて立て、のりかへに のりける、ゆヽしく見へけり。鎧の上の矢どもおりかけて各六波羅に参れりける。かちての上は心もおち居て見物にてこそありけれ。」(平家方には左衛門左平重盛(清盛嫡男)・三河守平頼盛(清盛舎弟)がいたが、この二人はまことに総大将らしい戦いぶりを見せた。重盛は敵に矢を射られたが、臆せず堀河(京都の堀河通に沿った河出、そこには材木上人の木場があった)の材木の上に弓を杖にして立ち、代わりの馬に乗っていたのも、なかなか堂々として見えた。平家の武将たちが鎧に突き立った矢を折ったままにしたりなどして六波羅に戻ってきた姿も、勝ち戦であったから、見る者の心も落ち着いており、頼もしく思われたことであった。
「武士等うちまきてありける。大雨にてありけるに、武士等はれは雨にぬるヽとだに思はぬけしきにて、ひしとして居かたまりたりけるこ そ、中++物みしれらん人のためにはをどろかしき程の事なりけれ。」(武士というものの性格)→(東大寺供養の日、頼朝は東大寺に参詣し、武士らにとりまかれていた。折からの大雨にも武士らは雨に濡れることなど気にも留めない様子でしっかりと居住まいをただして控えていたが、それはもののわかる人にとってはなかなか驚異の念を禁じ得ない場面であった
③直接取材→迫真性
・その時新院まいらせ給たりけれども、内へ入れまいらする人だにもなかりければ、はらだちて、鳥羽の南殿(の)、人もなき所へ御幸の御車ちらしてをはしましけるに、まさしき法皇の御閉眼のときなれば、馬車さはぎあふに、勝光明院のまへのほどにて、ちかのりが十七八のほど、のり家が子にて、勘解由次官になされてめしつかいけるが、まいりあいたりけるをうたせたまいけるほどに、目をうちつぶされたりとのヽしりけるを、すでに今はかうにてをはしましけるにまいりて、最後の御をもい人にて候ける光安がむすめの土佐殿といひける女房の、「新院のちかのりが目をうちつぶさせたまひたりと申あひ候」と申たりけるをきかせをはしまして、御目をきらりとみあげてをはしましたりけるが、まさしき最後にてひきいらせたまいにけりとぞ人はかたり侍し。
・筑後の前司しげさだと云し武士は、土佐源太しげざねが子なり。入道して八十になりしにあいて侍しかば、「我が射て候し矢のまさしくあたり申て候し」とて、かいなをかきいだして、「七星のはヽくろのかく候て、弓矢のみやうが一度もふかく候はず」とぞ申し。
・こまかに仲行が子にとい侍しかば、「宇治の左府は馬にのるにをよばず、戦場、大炊御門御所に御堂のありけるにや、つまどに立そいて事をおこないてありけるに、矢のきたりて耳のしもにあたりにければ、門辺にありける事に蔵人大夫経憲と云者のりぐし申て、かつら河に行て鵜船にのせ申て、こつ河へくだして、知足院殿南都へいらせ給たりけるに、「見参せん」と申されければ、「もとより存たる事也。対面にをよぶまじ」と仰られける後に、船の内にてひきいられければ、このつねのり・図書允利成・監物信頼など云ける両三人、般若寺の大道より上りての方三段ばかり入て、火葬し申てけりとぞうけたまはりし」と申けり。