☆討幕を画する後鳥羽との分袂(ぶんべい)
☆討幕を画する後鳥羽との分袂(ぶんべい)
「さてこの後のやうをみ るに、世のなりまからんずるさま、この二十年より以来、ことし承久までの世の政、人の心ばへの、むくいゆかんずる程の事のあやうさ申かぎりなし。」 (さてこののちの事情を見るのに、世が移り変わっていく有様、この二十年前から今年承久までの、世の政治や人の心ばえの報いがあらわれようとする間のことの気がかりは、もういうことばもない。)
→戦前はGTBの鎌倉幕府打倒を是認しその意義を高唱するように教育方針が厳重に定められていた。よって、上皇の計画を未然に察知してこれを諌止する意図で著された愚管抄は、教材として歓迎されなかった。
*著者が慈円と判明したのは大正9年(1920)
・自分の記事も三人称。「此山座主の間に前大僧正慈円の四度まで成て、かく辞ける事こそ心得がたくあさましき様 なれ。かうほど辞申人をば上よりもいかに成たびけるにや、又下にもかう辞申べくば、いかにして又なりヽヽはせられけるにや。いかにもいかにも 是は様あるべき事 にや。かやうの事は山門の仏法、王法と相対する、仏法のまこと見へて侍けり。」