※9_4.夫れ許由が小子なる、猶万乗を脱る。況や沙門何ぞ三界を願はん。(ノート)
#性霊集 #ノート
from 性霊集2016
※9_4.夫れ許由が小子なる、猶万乗を脱る。況や沙門何ぞ三界を願はん。(ノート)
恐れ多くも、大先生の訳にケチをつけているのは、汗顔の至りながら、少々解説をば。
今鷹真 訳
かの許由は、帝堯の禅譲を辞退して帝位をまぬがれたとはいえ、現世のことにしか関わらぬ小子に過ぎません。ましてや出家沙門たる自分は、三界を捨てて現在と未来の人々を救わんとこころざす者であります。
私訳
かの許由は世俗の人ですが、聖帝・堯が禅譲しようとしても受けなかった。ましてや沙門たる者、三界(迷いの世界)を願っていませんから、この大僧都なる職に未練などございません。(=なので、病気だし辞職したい。)
※三界は迷いの世界なので、現在と未来も含まれてしまう。悟りとは輪廻から脱出すること(=出離)だから。「現世の栄達を願わない(=辞職したい)」という意味で「三界を願わない」という言い回しは、ぱっと見にはわかりやすいロジックのように思える(ので、そのような使い方なのかもしれない)が、根本に立ち返って考えると奇妙である。 
ただし、「三界を願わない(=悟りを目指す。自利)ことによって結果的には現在と未来の人々を救うことになる(=利他)」というロジックは成り立つので、舌足らずな訳だとは言える。僧侶の本分は、実に出離以外の何物でもない。自利こそが利他そのもの。
とは言え、理趣経百字の偈の最も有名な部分にも「恒作衆生利而不趣涅槃(=菩薩は衆生を利益して、しかも涅槃に赴かない)」とあるので、利他こそが自利と転換する事は正しいだろう。