※10_6.叡山の澄法師、「理趣釈経」を求むるに答する書(ノート)
#性霊集 #ノート
from 性霊集2016
夫れ理趣の道、釈経の文、天も覆ふこと能はざる所、地も載すること能はざる所なり。
塵刹の墨、河海の水も、誰か敢へて其の一句一偈の義を尽くすことを得んや。
如来の心地の力、大士如空の心に非ず自りは、豈能く信解し受持せんや。
理趣経の道理や理趣釈経の文章は実に広大であり、天も覆うことができず、地も載せることができない。
三千大千世界の地を墨とし、河海の水で磨って書いても、その一句一偈の意義を尽くすことは誰にも叶いません。
如来の大地のような心の力、菩薩の大空のような心によるのでなければ、その教えを信じ理解して保持することは不可能なのです
***
夫れ理趣の妙句は、無量無辺にして不可思議なり。広を摂して略に従へ、末を棄てて本に帰するに、且(しばら)く三種あり。一には可聞の理趣、二つには可見の理趣、三つには可念の理趣なり。
そもそも理趣の妙句の道理は、無量無辺にして不可思議ともいうべきものである。その広きをつづめて略し、末端を切り捨てて根本に帰納すれば、とりあえず三種が考えられる。一つには可聞(聞くことができる)理趣、二つには可見(見ることができる)理趣、三つには可念(思うことができる)理趣である。
***
若し可聞の理趣を求めば、聞くべきは汝の声密、是なり。汝が口中の言説、即ち是なり。更に他の口中に求ることを須(もち)ゐず。
もし可聞の理趣を求めるならば、聞くべきはすなわち自身の語密がそれである。自己の口中内部の(秘められた真言の)言葉がそれで、他人の口中に求めるべきではない。
from 性霊集2016
若し可見の理趣を理趣を覓(もと)めば、見つべき者は色なり。汝が四大等、即ち是なり。更に他身の辺に覓むることを須(もち)ゐず。
もし可見の理趣を求めるならば、見るべきものは色(すなわち)物質であって御身の身体を構成する四大(地水火風)などの元素(エッセンス)がそれである。他者の身辺に求めるべきではない
***
若し可念の理趣を索(もと)めば、汝が一念の心中に本より来(このかた)具(つぶさ)に有り。更に他心の中に索むることを須ゐず。
若し可念の理趣を求めるならば、御身の一念の心の中に本来的に具有するものがそれで、他人の心中に求めても詮無きことである。
from 性霊集2016
復次に三種有り。心の理趣、仏の理趣、衆生の理趣なり。
→また次に三種がある。心の理趣、仏の理趣、衆生の理趣である。
若し心の理趣を覓(もと)めば、汝が心中に有り、別人の身中に覓むることを用ゐず。
→もし、心の理趣を求めるならば、それは御身の心中にあり、他人の身中に求めることは無用である。
若し仏の理趣を求めば、汝が心中に能覚者あり、即ち是なり。又諸仏の辺に求むべし。凡愚の所に覓むることを須(もち)ゐず。
→もし仏の理趣を求めるならば、御身の心中にあってよく覚る主体的なものがそれである。また併せて諸仏のあたりに求めるべきで、凡愚のところに求めるべきではない。
若し衆生の理趣を覓めば、汝が心中に無量の衆生有り、其れに随って覓むべし。
→衆生の理趣を求めるのであれば、御身の心中に無量の衆生がいるから、それにしたがって衆生の理趣とは何かを探求すべきである。
from 性霊集2016
又所謂「理趣釈経」とは、汝が三密、則ち是れ理趣なり。我が三密、即ち是れ釈経なり。
→またいわゆる「理趣釈経」とは、御身の身口意の三密が即ち理趣に当たり、我が三密がすなわち「理趣釈経」に当たる。
汝が身等は不可得なり。我が身なども亦不可得なり。彼此俱に不可得なり。誰か求め、誰か与へん。
→御身にある三密は不可得(認知することができない)であり、わが身などの三密もまた不可得である。それぞれともに不可得であるから、誰がよくこれを求め得て他に与えることなどができようか。
from 性霊集2016
亦二種有り。汝が理趣と我が理趣と即ち是れなり。若し汝が理趣を求めば則ち汝が辺に即ち有り、我が辺に求むることを須(もち)ゐず。
→また二種あり。御身の理趣と我が理趣とがそれである。もし御身が自らの理趣を求めているのであれば、御身の辺りにこそある筈で、我が辺りにもとめるねきではない。
***
若し我が理趣を求めば則ち二種の我有り。一つには五蘊の仮我、二つには無我の大我なり。
→もしわが理趣を求めているとすれば、二種の我があり、その一つは五大の構成要素から成る仮の我であり、その二は無我に徹して実現される大我である。
若し五蘊の仮我を求めば、即ち仮我は実体なし。実体無くんば何に由ってか得ることを覓めん。
→もし五つの構成要素から成る仮の我の理趣を求めているのであれば、仮の我は(原因と条件が合わさって生じたものであるから)実体がない。実体のないものをどうして求め得られようか。
from 性霊集2016
※10_6.叡山の澄法師、「理趣釈経」を求むるに答する書
若し無我の大我を求めば、則ち遮那の三密即ち是なり。遮那の三密は何れの処にか遍ぜざらん。汝が三密即ち是なり。外に求むべからず。
→もしまた、無我の大我を求めているのであれば、大日如来の三密がそれである。その三密はいかなる処にも遍く存在しているもので、御身の三密がずばりそのものであるから、他人の身辺にこれを求めるべきではない。
from 性霊集2016
※10_6.叡山の澄法師、「理趣釈経」を求むるに答する書(ノート)
又余(われ)未だ知らず。公は是れ聖化(しょうけ)なりや、為当(はた)凡夫なりや。
→また私は、御身が衆生済度の仏なのか、また凡夫として自らを考えておられるのか、まだ判らない。
若し仏化ならば則ち仏智は周円なり、何の闕けたる所有ってか更に求覓(ぐみゃく)を事とする。
→もし仏であるならば、仏の智慧は完全で欠けるところがないのであるから、どこが欠けているからとして、さらに探し求めようとするのであるか。
若し権の故に具覓せば、則ち悉達太子の外道に事へ、文殊の釈迦に事へしが如くならん。
→もし権の方便であるから求めるというのであれば、悉達太子が仏教以外の宗教者に仕え、文殊菩薩が釈尊に仕えたように為すべきであろう。
from 性霊集2016
若し実の凡にして求めば、則ち仏の教えに即ち随ふべし。若し仏の教えに随はば、即ち必ず須らく三昧耶を慎むべし。三昧耶を越すれば、即ち伝者受者倶に益無けん
→もし自らを真実の凡夫として理趣を求められるのならば、仏の教えに随うべきである。仏の教えに随うならば、必ずや誓いを慎むべきである。この誓いを破れば、伝授した者、受法した者、ともに何の利益もないであろう。