yasumiのメモ:『人を賢くする道具』第1章
004「日本語版の読者へ」006「はじめに」から、021「第1章 人間中心のテクノロジー」まで
本書について:
ずっと「人間中心のデザイン哲学」を研究してきたノーマンが、アカデミアを離れ、ビジネスの世界に身を置きながら初めて執筆した本。自身の哲学を産業界で実際に応用するため、必要な原則を検討していく。
また、退屈な社会は、退屈なテクノロジーや生活しか生み出せない。そのため本書が論じるのはテクノロジーの問題であり、同時に社会構造の問題でもある。
印象的なこと:
1)ノーマンはオプティミストである。人の知的能力の限界をペシミスティックに捉えず、可能性のほうを信じている。テクノロジーは人の認知を単に補うというより、認知を支援する「友」として存在できると信じている。これは意外だったし「ノーマンおじさんよいじゃん!」と思った。
2)「心」という言葉にノーマンのこだわりを感じる。しかし「心」は近代に商品化された概念でもある。著者の真意を探っていきたい(単純に、心=認知なのかも?)。
疑問:原著で「mind」と書かれている所を「心」と訳しているので、「こころ」の解釈には注意が必要。日本語から受け取る印象よりも、もっと認知科学・神経科学なニュアンスで「mind」を用いているのではないか?
そこで、原著の試し読みと、日本語訳を比較してみた。
21p The human mind is limited in capability. 人間の認知能力には限りがあり、
22p Is this the kind of informing we had in mind? これがわれわれが頭に描いている情報というものなのだろうか?
23p I am a cognitive scientist, interested in the working of the mind. 私は認知科学者である。心の働きに興味を持っている。
23p My most recent research has concentrated upon the development of tools that aid the mind-mental tools I call ”cognitive artifacts.” 私が最近力を注いでいる研究は、心を支援する道具を発展させることである。
30p But unlike many of those who have preceded me, my goal is to increase the general understanding of how these technologies of cognition interact with the human mind. だが多くの先達とは違い、私の目標は、こうした認知のためのテクノロジーがどう人間の心と相互交渉するかということについて普遍的な理解を進めることである。
個人的な参考1:脳科学者の松本元によれば(『脳・心・コンピュータ』1996年)、心は「①知」「②情」「③意」「④宣言的記憶(エピソード記憶・意味記憶)と、非宣言的記憶(からだで覚える)」「⑤意識(意識・無意識)」の五つから成るという。←『脳はなぜ「心」を作ったのか(2010年,前野隆司)』より
↑脳科学的な見方?
↓神経科学的な見方?
アーティファクト(人工物)とは:
人間の可能性を広げる人工の装置。認知を助ける物理的・心理的なあらゆる発明品。具体例→024
ノーマンは、心を支援する道具、知的な道具のことを「認知のアーティファクト」と呼んでいる。
テクノロジーを利用すれば、それらをより深く・明快に考えられる。
本書で論じる対象は、主にコミュニケーション、教育、エンタテイメント、ビジネスのための新しい手段や新しい形態のメディア。
新しいテクノロジーを利用したアーティファクトの問題点:
人間を奴隷化、麻薬中毒化し、生産的な営みを妨害し、持てる者と持たない者を分断し、持たない者を社会から追いやってしまうetc.
なかでもエンタテイメントのテクノロジーは心の荒廃を助長している。人の認知能力を操り、聴衆を愚かにし、家に閉じ込めている。これは「間違っているだけでなく有害」な問題。026,042
問題の背景として、20世紀以降はずっと「機械中心の見方」が主流であると指摘。
「科学が発見し、産業が応用し、人間がそれに従う ---1933年シカゴ万博のスローガン」031
ノーマンが掲げる目標:
A:テクノロジーやそれを利用したアーティファクトを、人間中心の考え方でデザインすること。036
B:そのために「テクノロジーが人間の心や認知とどのように相互交渉するか」について普遍的な理解を進めること。023,030,037
なぜ↑A人間中心が必要なのか:
「われわれ人間は考え解釈をする生物である。心というものは常に説明を探し、解釈し、仮説を立てようとする。能動的、創造的、社会的存在なのである。他者との交流を求める。機械とは異なり、他者が要求していることを理解しようとして自分の行動を変える。これら自然に備わっているすべての傾向が、効率を追求する工学的アプローチによって妨げられてしまうのだ。」039-040
これら自然に備わっているすべての傾向=「人間に固有の美点」004
なぜ↑Bの理解が必要なのか:
色々なテクノロジーの存在理由や特性を学べば、その影響をコントロールできるはずだ。031
これまでのテクノロジーの発展は偶発的だったため、心の荒廃も偶発的なものである(ここに光明がある)。037
これまで科学は数値化できる測りやすい情報だけ把握してきた(心やQOLのような測りにくい影響は無視されてきた)。038
______________以上が基本
以下が詳細
では具体的に何をするのか:
1:ハード・サイエンスには測定が難しい部分を、ソフト・サイエンスで拾いあげること。041
ハード・サイエンス=緻密で正確な測定に頼る科学。
ソフト・サイエンス=観察や分類、主観による測定や評価に頼る科学。
ソフト・サイエンスを活かすためには、「ソフト・テクノロジー」が必要である。
ソフト・テクノロジーをどのように実装するのか? ワクワクと同時に、難しいのでは? という気もしている。
2:「効果的な内省」のための構造や仕組みをつくること。
本来、人の認知には多くのモードがあり、思考は多くの異なった方法で行なわれる。043
しかし、テクノロジーの使い方は、効率的なエキスパート行動のモード=「体験的」認知と、思考や意思決定のモード=「内省的」認知の、どちらかに偏りがちである。044
たとえば、エンタテイメント用のテクノロジーは「思考の代わりに体験を受け入れるよう仕向けてきた」。
また、教育システムは本来「内省」に必要な手法を提供すべきだが、「体験」モードにはまってしまっている(ねじれが起き、テクノロジーをうまく使えていない状況)。
他の領域(コミュニケーションやビジネス)の例も後述されるのだろうか?
効率的な「体験的」認知は体験すれば実践できるが、内省はそうはいかない。
つまり、2種類の認知のバランスを是正するには、「効果的な内省」のための構造や仕組みが必要である。