アイコンのルッキズム
顔面以外のすべてをパッケージングして投稿できるような状態にまで洗練できている場合と比べた逸失利益のことを考えなければ、活字のみに人格表現を依らしめ、ルッキズムから自由になることはできるかもしれない。しかしながら、おれ(たち)はしばしば、人の打つ活字の文体に、語彙に、あるいはそのような用語で表現できないにせよ、暗黙のうちには認識している特徴量に、話者の年齢、性別、知性、教養、生まれ持ってきたバッググラウンドに至るまでを見出すものだし(君も今それをやっているんじゃないか?)、勝手に好意を抱いたり距離を取ったりする──ファーストインプレッションの段階で。それに得てしてそういうものは、顔が隠れる程度では除ききれないどころか、むしろ活字という過程を通じて強く露見するようにも思われる。
SNSが、伝達範囲や速度、人間関係の深まりやすさのようなパラメータのいくつかを書き換えた人間社会の再展開である以上、他人という地獄は宿命として存在する。私はそれと闘争する気力はすでになく、どうやってうまく乗りこなすか、そちらの方を考えるようにはなった。そのうえで頼りになるのはルッキズムだ。人間の好悪のパターンは、ほとんど生得的なものとして、あるいは後天的であるにしても大体は共通の過程を通って形成されているのではないか、そう考えるくらいには単純なもので、それを理解することもかなり容易だと、年を取るごとに思うようになった。だから、よく吟味されたかわいいアイコンは──少なくともTwitter社会においては、距離感を詰める第一歩として、あるいは私のバックグラウンドをいくらか隠蔽する仮面として、ある程度有効に機能し続けているとも思っている。
とことん随筆: 1~10【2024-07-10】 - 二千三百五十五年 (良性腫瘍)
本当に?
今の私たちはまだ文からその筆者を類推・見出すことを避けられないけど、それは私たちの単なる能力不足、修行不足ではないか
人間の顔面とアイコンを結びつけてしまうことに必然性はない
美的一貫性的に、SNSの中で存在する法則の中を世界で信じる能力は物理現実と分けて扱うことができる
姿形そのものから自由になる
そもそもルッキズムは明確に差別主義で、態度としてそれに寄与する時点でそれには反対せざるを得ない