見送っていい常識と疑うべき常識
https://gyazo.com/7005432280563eb707eb852289524bbf
再解釈
哲学などを教養を学ぶ理由は、「見送っていい常識」と「疑うべき常識」を見極める選球眼をつけるため
「常識を疑え」で何でもかんでも疑ってたらキリがない 見送っていい常識の例
信号の青が進めで赤がなぜ止まれなのか
時計がなんで右回りなのか
お金でなぜものが買えるのか
キーボードを打ったらなぜ文字が打てるのか
疑うべき常識の例
会社には出勤しないといけないという常識
スマホゲームはガチャで稼ぐ仕組み
お金を稼ぐことが一番の目的になっている行動
/sta/sta.iconさんのページで言及して頂いたので、改めて見直してみた
見送っていい常識か疑うべき常識なのかは、"時代背景"や"考えるその人のコンテキスト"に依存しそうだと改めて思った
「変えても本質的に情報量が変わらないもの=見送っていい常識」?
その時代、その人にとって、「本質的に変える意味がなさそうなもの」は見送っていい常識になりそう
ほとんどの人にとっては、信号の色は変わってほしくない
時計も右回りじゃなくて左回りになったら困る
人依存
例えば、交通事故の死亡数をガチで減らしたい研究者にとっては、「信号の青が進めで赤がなぜ止まれなのか」は疑うべき常識に変わる可能性ある。
時代背景依存
例えば、自動運転が普及して人間が誰も自分で運転しなくなった時代においては、「信号の青が進めで赤がなぜ止まれなのか」も疑うべき常識に変わりそう。
本に書かれている「見送っていい常識、疑うべき常識の例」とかも疑っていかないといけない・・・