大学はいつまで教養を学ぶ場でありつづけるのか?
現代の大学の役割について語ろうと思うkeroxp.icon2019/12/9
「大学は教養を学ぶ場」だと大学側に所属する人間はよく言う
しかし学校と教師の終焉でも語ったが、インターネットや書籍の情報環境が整った現代に置いては教養を手に入れる場としては大学はもはや唯一の場ではなくなったと思う ではいったい大学はいまなにを教えているのか?
個人的な話をすれば、僕は大学の授業のほとんどすべてがつまらなくて苦痛だった
ググれば分かるような知識や、Wikipediaの方が詳しいだろみたいな資料とか、「それはあなたの感想ですよね?」みたいなことを言ってるだけの教授とか
一方で非常勤講師や特別招聘教授の授業は、入門的ながらも専門的・実践的で企業で活躍している人たちが実際にその知見や技術を教えてくれる感じがあり面白かった
その頃から知識よりも技術を学ぶことが好きだった自分の性質もあるのだろうけど
※個人的には技術には必ず知識が付随するが知識には必ずしも技術が付随しないという難点があると思っている
身につけるのは知識のほうが短時間で効率的であるという点を除けば技術から学ぶのは間違いではない
一方で正規雇用の教授や准教授の授業で特段面白いというものはほとんどなかったと思っている
コンピュータサイエンスにだけ関していえば、特に年齢の高い教授の授業は情報も古ければ教え方も資料も昔のままで、現代のソフトウェア開発の知識が明らかに欠落していた
そういった教授たちの授業は学術的には最先端とは言えず、ググればWikipediaに乗ってるような知識ばかりだった
※僕の仲間内では、『JSバンドラーが作れても論文にもなりゃしないし教授にもなれねぇ』というジョークが有る
ちなみにJSバンドラーとは、複数のJavaScriptファイルをうまく結合して一つのJavaScriptファイルにすること 意味は、産業的には最先端の知識を知っていても大学ではとくに活躍できないということ
コンピュータサイエンスは歴史的には浅い学問だが、現代はその更新スピードが尋常ではないので最先端のコンピュータサイエンスについて何を教えるか?というは毎年毎年考え直さなければならない
一方で基礎的なコンピュータサイエンスの知識というのもやはり必要で、そういった膨大な知識をどう分配して教えるか、あるいは教わるか、ということについてはとてもむずかしい問題だ
現代のソフトウェア開発の最先端の知識や技術は、大学では学ぶことが出来ない
※大学は専門学校じゃないんだから仕方ないという話はよこに置いておく
であれば、大学で学んだコンピュータサイエンスの知識は一体どこで役に立つのか?
僕は大学でコンピュータサイエンスとUIの研究をする傍ら、ロイロでソフトウェアエンジニアとして働いていた ※正社員ではなかったけどね。いわゆるバイト。しかし僕は学生の頃から「バイト」という呼び名を嫌っていて、週2で働いている専門職の会社員だ!というプライドを持っていた。実際フルタイムになった今もそう思う。立場も内容も何も変わっていない。それは会社ゆえのことなのだろうけど。
ソフトウェアエンジニアとしての開発知識は、大学の研究室の友だちと会社での実務、あとはネットの情報ですべて得た
これらの活動がなければ、自分はソフトウェアエンジニアにはなれなかったと思う
なんとびっくり、大学の授業を真面目に受けていてもマトモなソフトウェアエンジニアにはなれないのである!
確かに大学のコンピュータサイエンスの授業ではソフトウェア開発、というよりはプログラミング全般の普遍的な知識を勉強することができて、それが役に立つことはたくさんある
大学のCS学科で勉強している学生の人たちが、結構な確率で「大学でプログラミングを勉強しているけどアプリの作り方とかはよくわからない」みたいなことを言うのを耳にするのだけど、僕からすると「なんで?」という感じではある
むしろアプリ作る以外でプログラミングする場面なんかあるか?と言っても過言ではない
要するに大学で教えているプログラミングというのはプログラミング基礎……といえば聞こえがいいけど要するにプログラミングのいろは程度しかないということである。
※これは自然言語教育(英語)とも似ていると思う。日本の英語教育は先進国の中でも最悪レベルの失敗作だが、「言語を学ばせる」という手段が目的に置き換わってしまい結局その言語で何がしたいんだっけ?という根本が見失われている
プログラミングはソフトウェアを作るためのものです。ソフトウェアを作らない限りプログラミングを学ぶ意味は一切ない。日本で暮らす上でまったく英語が必要ないように。
プログラミングはできるがアプリは作れない、というのは実際はかなり根の深い問題であることは認める
現代のソフトウェア開発は相当に高度化していて、プログラミング言語 + フレームワークやライブラリの使い方が必須知識になってくる。
そうなるとプログラミングの基礎を勉強しただけではアプリは作れるようにならないのは事実
一方で大学の授業は特定のフレームワークなどは取り扱わないことがほとんどだから、実際アプリの作れないプログラマモドキが量産されてもさもありなんという気持ちではある
だが大学で教わるコンピュータサイエンスの基礎知識が無駄だとは決して思わない
個人的には特にOSやネットワーク、アルゴリズムに関する知識は授業で学んだことが大事だったとは思うことは多い
ただまぁ、それも別に本読んだりネットでググっても身についた程度の知識だろうなとは思ってしまう。残念ながら。
半期15回という授業はざっくり厚めの本一冊、という規模感で、本一冊を自分で読めてしまう人にはダルいサイクルだし、それを週15コマも履修しなければならないというアホらしさも自分には向いていなかった
僕のいた大学の授業はどれもこれもググれば出てくるような内容の授業で、教授の授業も下手で、ITC教育といえばPDFのリンクを貼るくらいで、退屈で退屈で仕方なかった
おかげで僕の成績はプログラミング以外最悪で、授業中はずっとパソコンでプログラミングしていた
そうして僕がたどり着いた結論は、大学はコンピュータサイエンスは教える気はあるが実践的なプログラミングを教える気はないんじゃないかと言うことだった
これに気がついたときは自分は結構な危機感を覚えたし、結果的にはその技術は学生ながら企業の中で身につけるしかなかった
残念ながら日本の大学は、自分で本を読んだりググったり出来ない人間に本の内容を念仏することを目的に授業を行っている
もうこれは戦後からずっと変わっていないこの国の高等教育のあり方だし、そういった欺瞞に気がついた教員や学生から大学から距離を置いて企業の中に活躍の場所を求めている
そう考えると大学の役割って何なんですかね?
大学側は流石に今どういう時代でどういう知識が必要とされているかくらいは分かっているはずので、それに合わせて4年毎とかに色々カリキュラムを計画していたようだが、それが授業という形でしっかり機能していたかは疑問である
大学が提供してくれるのは「学問を修めた」というハンコだけであり、その先にはなにの保証もない
大学教育の価値は、そのハンコがその先でも役に立つという保証に守られている
大学教育のあり方はずっと変わっていないが、ハンコの価値は時代によって移り変わっていった
明治時代や昭和初期は大学生の絶対数が少ないこともあったし、研究機関として大学が国の最先端であったかあらそのハンコは研究者の証でもあった
昭和後期や平成は研究機関の最先端が企業に取って代わられ、専門職では企業の就職、非専門職では大学の名前が価値を持つようになった
みなハンコの有用性だけを金で買い、学問を修めることの価値はよくわからなくなっていった
学問を修めることの価値はお金ではないのかもしれないが、現状大学は実質的に職業を選ぶ場として存在している現状で、そんなことをのほほんと言っている場合じゃないんじゃないかとも思う
なので大学の勉強はなんのためか、というのはよく議論の俎上に上がるが、結局の所いまの大学の勉強は「大学院の勉強のため」なんじゃないかと思ってしまう
我が国では大学と企業はとにかく仲が悪く、お互いがお互いを時代錯誤の馬鹿だと罵り合っているけど、どちらが正しいかはともかく不毛な状況であることは間違いがない
これは小学、中学、高校も同じような構造で、中学校の教師は「小学生のうちにもっとちゃんと教育しとけや」と愚痴り、高校の教師は「中学生のうちに(ry」と愚痴る。そうして大学進学率50%の日本のテンプレ大学生が生まれる
それらすべての学びのステージでやる勉強は、上のステージに上がるための勉強であり、ちゃんとランクアップできるかどうかだけが唯一の指標とされている
そういったくびきから開放され「さぁ自由に勉強しよう!」と放牧された大学で学生が自分を見失うのも当たり前である
大学は、自分たちが学問の総本山であり大学のみが真の学問を実践する場であると思っているフシがある
しかし「真の学問」に興味を持つ人などほとんどいないのが実際である
自分が修士課程に進学したのも「プログラミングやUIは好きだけど、果たして自分は学問に興味あるのだろうか?」というのがイマイチよく分からなかったからで、結果的には僕は「プログラミングとUIが好き」なだけの人だったのでアカデミアに居場所は見つけられず企業に行ってしまった。残念ながら僕の直接の先輩や後輩で修士から博士に進学した人は一人もいない。
「書生」という言葉がまだあった時代、学問や大学は金のある物好きのためのものだと思われていたが、それは現代でも同じようである 大学の勉強が修士、博士、ひいては大学の学問のためであるなら、この数字はあまりにも低すぎる
一般的に修士課程や博士課程の学費は学部よりも高い
そんななか修士課程や博士課程に進学する人間は物好きと言われても仕方がない
なぜかといえばこの国では修士をとっていようが博士をとっていようが卒業後の給料に差が出ないからである
学部卒と院卒で新卒の給料が違うところでも、月給で2万円とか4万円とかの微々たるものである
少なくとも、修士号を取得するために払った2年間という歳月と学費、修士論文を書くためにした苦労に比べれば馬鹿馬鹿しいとすら思える額の違いだ
僕が新卒で入った会社は半外資だったということもあり、同期のソフトウェアエンジニア8人は全員大学院卒で、給料も高かった
しかしそんな会社は指折り数えるほどだろうし、日本企業では察するところ多いだろう
加えて、僕が大学を卒業してプログラマーとして就職するときまったく苦労しなかったのは当然だと思う
だって学生の頃から企業で働いていたんだから。ある種の異世界転生なわけです
大学を卒業してから実践的なソフトウェア開発を学ぶ人とは、就職の時点で天地ほどの経験の差があるのも仕方なかった。
とはいえ2、3年の違いでしかないのでその差を埋められる人もいるし、一生埋められない人もいると思う。
つまり、大学が求める能力は大学でしか身につかず、企業が求める力は企業でしか身につかない。
こういう至極当たり前の現実がある現状で、18歳から22歳の若者に大学 -> 企業という一方通行の人生プランを提示するのは実際どうなんだ、と思うわけです。
大学は自分たちの真の仲間(博士課程からの教員コース)を作ることを自己目的化している一方、企業は大学以外から人材を取る手段がないので存在しない「即戦力」を要求し続ける
このギャップは永遠に埋めようがない。だってそもそも大学と企業は目的が違いすぎるじゃないですか。
大学と企業は本来役割として並列に社会に存在するものにも関わらず「大学を卒業してから企業に就職する」という絶対的な流れが存在し、「企業に就職してから大学(学部)に入学する」、「企業と大学同時に所属する」という選択肢が、18歳を迎えた若者には存在し得ないのが残念である
ちょっと頭が良ければ大学に行くことが当たり前になった現代に、それまで知りもしなかった「真の学問」に興味を持てなかったほとんどの学生は「つかえない新卒」というラベルを貼られて企業に渋々出荷されていく
社会と企業がそういった人間ばかりで作られるようになれば、学問を主体的に修めた修士や博士の学生は「変わり者」として企業社会に居場所を失っていく。実際そうなっている 企業と大学がともに社会の中で価値がある存在であり続けるには、両者がリレーのように連携する道を探すよりも、その行き来が可逆的であったり同時であったりするのが当たり前の社会にならないと厳しいんじゃないかと思う
まぁ実際親に学費を出してもらわずに大学に通えるんかいな…という疑問も多いのだが
あとは企業が企業の求める人材をそんなにほしいんなら、自分で大学校を作ればいいんじゃないかと思う
防衛大学校は実質的に国が運営していることもあり学費も自衛隊に入れば無料になったりするし
4年制の学校を作るのは無理にあるにしても、塾というか夜間学校みたいな形で運営すればいいんじゃないですかねとか
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生きていく上で貪欲に知識と情報を得続けるのは当然というか、そうした方がいいことは間違いがないと思う
手札が少なければ、それだけ立てられる戦略も幅も狭くなってしまうので
最新の情報を得る場として大学の授業がもはや機能していない現代、その授業への従順具合で大学内だけでしか通用しない優秀さを図ったところで、意味がないんじゃないかと思うのです
僕の友達にもとにかくどんな授業でもAとれるみたいな才能を持った人がいたけど、別にその人はそんな学問にも興味があったようには見えなかった
その人は奨学金のためにどうしてもAを取らないといけないと言っていて、親の金で好きなことばっかりやってる自分にとってはなんだかなぁと思ったことを覚えている
自分が恵まれていることは分かっていたがそうやってまんまと攻略されてしまう大学もどうなんだと思った
結果的に自分は大学の成績は最悪だったけど、今でも暇なときはなんでもググったりWikipediaを読んだりしてるのでそういう自分が大学で活躍できなかったのは変な話だなぁと思う
大学で優秀な成績を納めた人が企業に行って教養とは無縁のコネと酒の仕組みに飲み込まれて行くのは悲しいなと思う
「大学に行くのはフツー」「大学を出てから企業に行くのはフツー」という常識も、YouTuberやフリーランスで活躍する人がどんどん出始めてきている現在、この社会を蝕む非常識なんじゃないかなと思います