刀狩り
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豊臣秀吉による刀狩り以来、日本の民衆は「丸腰」なされてしまったという、歴史家にすら疑われることのなかった通念を、丹念に検証し問い直す。さらに、秀吉の刀狩りのみならず、明治維新の廃刀令、第二次世界大戦後の武装解除も含めた「三つの刀狩り」を通じて、日本人の武器に対する態度を明らかにする。 刀狩りによって民衆が丸腰になったという通念については、資料からそんなことはなかったことを明らかにする。刀狩り移行も、農村には武器が大量にあったし、農民は日常的に脇差を身につけていた。それはアイデンティティのようなものですらあった。それが証拠に、農具を奪うことより脇差を奪うことの方がより罪の思いこととされていた。
刀狩りがまるで意味がなかったかというとそんなこともなく、武士には帯刀が許されたのに対して、それ以外には脇差までが認められるに過ぎなかった。治安維持ということもあるし、身分表象のためということもある。つまり、刀を持っているものが武士であるということだ。
明治維新後の廃刀令では、徴兵制を見据えて武農合一が目指された。さらに、帯刀は新時代の役人や軍人などのみに許され、身分表象の区別はスライドして維持された。しかし、GHQによる武装解除においては、なおも大量の刀が民間から押収され、丸腰とは程遠い状況であった。
一方で、鉄砲については江戸時代から使用が厳格に再現されていた。一揆を抑えるためとしても、幕府の許可がなければ発砲できないほどであった。一方で、猟銃の使用は必要に応じて認められていたし、江戸後半の治安悪化によりなし崩し的に所持が広がる事情はあった。しかし、鉄砲の量に比べて、抑制はよく働いていた。
秀吉の刀狩りによって民衆が「丸腰」にされたことが、今日まで続く日本の、武器を持たない平和につながるという通念があるが、実態は、持っていたけど使用を抑制していたということであり、それこそが憲法九条の理念を支える日本人の美徳であるが、近年そうした考えが弱まってきているのではないかと著者は警鐘を鳴らす(これは牽強付会なのではないかと思うが)。
まずは、自分も抱いていたような数々の通念を見事にひっくり返されという意味で、とてもありがたい本であった。
しかし、中世的な自助に基づく武装とアイデンティティの紐付きが、刀狩り等の規制によって弱められたのは確かなのではないかと思う。それが証拠に、植木枝盛や戦後の丸山眞男すら話題にした武装権(自由と表裏一体の観念だ)が、権利として日本に根付くことはなかった。現在のアメリカを見れば、それはもちろんいいことではあると思う。一方で、権利意識一般の弱さにつながることにも、もしかしたら繋がったのではないかとも思う。