わたしの料理観(2023年版)
これまでたくさんの料理関連本を読んできたが、その中でも大きな影響を受けたものを5つ挙げる。
料理のモデル化と実践における細部とは、エンジニアリングにおけるアーキテクチャモデルとその実装みたいな関係にある。料理でもエンジニアリングでも、どちらも大事。複雑な事象をモデル化する手続きと、実装における細部との行き来の妙を説くこの本は、エンジニアが読むと得るところが大きかろうと思う。料理が苦手ではなくなるメリットもあるだろう。
レシピには「塩 適量」など書かれていることが多いが、「具体的に何グラムだよ」と突っ込むのは筋違いである。そんなことは、エンジニアリングと同じで、ユーザに聞かなければわからない。料理であれば、自分や家族など、それを食べる人における具体的なコンテキストによって決まることだからである。その辺は、まさにアジャイルなりユーザリサーチなりの話と同じ。
先日読んだ『ミニマル料理』では、調味料を具体的に固定して、それぞれの分量まできっちり書かれており、また、作る過程で全体を計量しながら料理する「合理的」アプローチをとっている。それはそれでよいのだが、有元葉子さん的にいえば「レシピを見ないで作れるようになりましょう。」ということに尽きる。つまり「適当」でいいのだ。 「適当」といっても、どうでもいいということではなくて、自分の好みやその時の状況にあわせて経験的に「いい加減」を調整できるようになろうということである。そのために「ミニマル」な構造を知るというのは、よいことだろう。しかし、もっといえばそれは『料理の四面体』的な話になるのだけど。モデル化とアジャイルプロセスを実践するということ。
一方で、エンジニアリングとは異なり、料理の場合はプロならぬ家庭の料理家としては、何か目標があって追求するというよりは、生活を継続的にまわしていくという営みなのだから、自分が楽にできることが何より大事。ついあれこれこだわったり、これまでの常識にとらわれたり、外的基準を内面化したりしがちなのだが、それらをアンラーニングさせてくれるのが土井先生の本『一汁一菜でよいという提案』。 ただし、料理そのものの楽しみが、その時々の不意の出会いにおけるインプロヴィゼーション的なセッションにあるのもまた確かである。『食べたくなる本』にあるように、付き合いのある近所のお店との関係の中での営みとして、その時々の楽しみとして料理を実践していくことにも憧れる。自分の生活は、あまりそのようなコンテキストにはないのだが。 そうした料理観に至るまで長い時間がかかったのだが、その間に自分の考え方を支えてきて、そしてある意味ではその桎梏といまも常に緊張関係にあるのだが、『平松洋子の台所』をはじめとする、自分自身たくさん読んできた彼女の本に表現されている世界観による大きな影響というのもまた、逃れがたくある。しかし、自分の手には負えないことだ。そこからの逃走=闘争としてのレミパンなのである。どういうことか。 料理に関する家電をほぼ使わず、調理道具も少数のシンプルなものを多機能に使い回すというのが好みだったのだが(平松洋子さんの影響も大きい)、一方で「そうでなければならない」となってしまうとよくなくて、だから炊飯器を買ったし、レミパンやシリコン製のおたまやトングなども受け入れた。「適当」にやる=コンヴィヴィアリティのための道具としてのレミパンなのである(とはいえ、シンプルで美しい料理道具、うつわも好きなのだが)。 以上、影響を受けた料理関連本5冊について、それがどのような事態であったのかについて簡単に述べた。今後は、もっともっと「適当」に向かっていくだろう。しかしまあ、こういうことをごちゃごちゃ考えてしまうこと自体が「男の料理」(©︎千葉雅也)たる所以なんだろうけど……。そこからはもう逃れられないのかもしれない……。