感染症は実在しない
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著者の主張はタイトルよりも広く、「医療に関わる人達が恣意的に線引をして、それが社会のコンセンサスを得たときに病気と呼ばれるのだ」という風に読んだ。
感染症は「実在」しない。あるのは微生物と我々の「みなし」だけです。
全部読んだあとは、この一文ですべてが理解できる。よいまえがき
医者は、病気を「ある」「ない」のどちらか峻別にし、治療を「する」「しない」のどちらか一方に決めるしかなす術がない存在だからです。~医者の診療現場において、「ちょっとだけ治療」「半分だけ治療」~なんて選択肢は、あり得ないのです。
限られた情報の中で、意思決定をし続けなければいけないのは、やはり過酷な職業だなぁ
峻別(しゅんべつ)という言葉を知った
厳しくはっきりと区別すること
もともと結核は現象だった
病気はある症状、現象、「こと」、があり、その原因(菌やウィルスのこと。ただ、当然それは症状の必要十分条件ではない)が発見されることで、病気という「もの」になるという話。
必要十分条件ではない、というのは検査の感度と特異度が100%になりえないから。
「抗インフルエンザウィルス薬の使用方法 ポジション・ステートメント」は、知らなかったのだけど、こういう文書を出して、「判断」することを促しているのはとても素晴らしいな。
新型インフルエンザとパンデミックフルー
日本は「新型インフルエンザ」という「もの」として考えている、アメリカでは「パンデミックフルー」という「こと」として考えているという話。「もの」も「こと」も名前がついて初めて認識できるようになるので、名前をつけるということは良いが、「もの」に対処するのか「こと」に対処するのかで、たしかに動きは大きく変わる可能性があるなと思った。
症状がない現象でも病気と名付けましょうね、というコンセンサス、約束事がなされているといこと。そしてそれこそが病気の本質であり、何かの病気という実態があるわけではないこと。このことが了解されていればよいのです。
なるほどー
何万人も集めてやった大規模スタディーと言っても、それは逆に「何万人も集めなければ両者の差が見つからなかった、微妙な研究」ということになるでしょう。
この視点はなかった。学びという点ではこの一文が一番よかった。
ある医療を提供して1人の利益をるために何人治療しなければならないかという指標を「NNT(numberneededtotreat」といいます。
色々な指標がある。そして、一般の人が想像してるより、この数値はずっと大きい。30とか。
原理的には、完璧にバイアスをゼロにする方法はありません。それは排除しようのないバイアスが存在するからです。それは読み手のバイアスです。
なるほど。書く側だけの工夫では解決できない。
老化は現在の世の中では、病気と認識されてはいません。そして、原理的には病気と認識されてはいけない根拠はどこにもないのです。
そのような恣意的な存在でしかない病気を実在すると信じ込み、そしてそれを 「病気があるから」という理由で「治療しなければならない」と決めつける態度にあると思います。
ここまで読むと、老化についてはなるほどと思った。医療や保険を始め、さまざまなステークホルダーによって恣意的に決められている。多少陰謀論っぽい読み方もできるが、納得感はあった。
同様に「妊娠」も病気とはされていない(だから保険診療ではない)。
医療の目的を明確にしなければなりません。自分の価値観も明確にしなければなりません。~その目的に合致する形で価値の交換作業を行うことができるのです。これで初めて健全な医療を行うことができます。
「病気があるから治療する」のではないとすると、患者が医療を選択することになる。医者は情報を与え、患者が価値観に合わせて選択するのだ。
「科学的失敗」とは、失敗の認知に失敗し、吟味に失敗し、改善に失敗し、未来の成功に資することないまま終わるような失敗を言う。
失敗は失敗じゃないという話。科学的失敗だけは避けなければならない。 哲学者の鷲田清一先生は、コミュニケーションとは対話が終わったときに自分が変わる覚悟をもっている、そういう覚悟のもとで行われるもののことである、と述べている。
これはよい表現。