李琴峰さん、かんぴんたんさん、こぼねさん、関連
あとで整理
森哲平さんは、『身体的な特徴やジェンダーエクスプレッションがどうであっても、本人がトランスジェンダーだと言えばそれを真剣に受け止めるのは李だってそうだろう。』と書いているが、推測にすぎず根拠不明。
こぼねさん以外の神道LGBTQ+連絡会のメンバーがブログ記事か何かを公開していた気がするが、URLが見つからん。
これか?「『言霊の幸う国で』と宗教差別、SNSでのエスカレーションについて」
メモ:けむしは李さんの問題点(の露呈)としては、かんぴんたんさんとのやりとりの中よりむしろ、『反トランス差別zine』制作過程での議論における李さんの論(の差別性)が重要だと思う。どちらも非公開の場だからあれだが。
当人申告以外に(以上に)『実務上』、判別する必要がある、ということなら、じゃあどうやって?ということになるわけで。
当人がトランスかどうかと、そのレズビアンイベント・空間に有害かどうか(迷惑行為をした・しそうかどうか)は別の話。(なのに、百田尚樹みたいな差別者はトランス女性と認めない、という変な論になっている。)『興味本位のシスヘテロ男性』であっても、何らかの有害性がなければそもそも排除する必要がない(過大包摂を許容する)、という立場はあり得るが、李さんは『シスヘテロ男性の脅威』として属性的に捉えている。
李さんが「正しい排除」「誤った排除」をどう考えているかが重要。(そこに差別性がある。)
参加者の安全を考えるという視点からすれば、その人が「本当の」トランスジェンダーなのか、「なぜか参加したい人」なのかは関係がない(どうでもいい)。安全以外の(以上の)ことをやりたいのならば、それは別の目的があるということだろう。例えば、この空間を(「女性」らしいもので)同質的に満たしたい・異物を排したい、とかいう(ある種フェティッシュ的な)幻想・欲望。トランス差別者のシス女性幻想(安全神話)もそういう「別目的」が実際にはある。
「占有」に関しては、「占有」批判(シス中心主義・トランス排除主義への批判)をするときに、(たとえ少数でも)トランスレズビアンが今までも実際にレズビアンスペース・イベントを利用し共在してきた現実を無視・抹消しないように注意すべき。また同時に、逆にそうした現実を踏まえるとき、「だから個別の排除方針は正当化されるし、トランス排除など存在しないのだ」という考えに走ってはならない。
李さんはこの抹消警戒の文脈で強調したかったのかもしれない。この点については、本当の意見の「分水嶺」が明らかになる前に対話議論が終わってしまった、という印象。
メモ:『あの事件はまさにビアンコミュニティとトランスコミュニティの、「対話と交渉」の一つである』
『「レズビアンコミュニティとトランスコミュニティの(中略)隣り合う隣人同士で当然起こり得る対話と交渉」と言っています。「レズビアンコミュニティ」と「トランスコミュニティ」は、隣り合う隣人同士ですよね?重なり合う部分(≒トランスレズビアン)もありながら。』
この問題は、レズビアンスペースをめぐるシスとトランスの「折衝」(より良い単語ありそう)、である。あるいは、シスとトランスの、という対置構図は正確ではなく、トランスの扱い(性別の扱い)についての価値観 相異者間の折衝である、と言うべきかもしれない。レズビアンコミュニティをめぐる(ビアンコミュニティ内部の)シスとトランスの折衝の話を、『ビアンコミュニティとトランスコミュニティの対話』と表現してしまうのは明らかに誤りだろう。
烏丸百九さんを私は論者としてあまり評価していない(低く評価している)ので批判コストを積極的に割く気にならないのだが、なぜか視聴者が多いようなので、後で批判。
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1,
『当時は二人は李氏がシスジェンダーであると信じて疑わなかっただけのことを、』
相手をシスジェンダーであると予断することは、(もし実際にシスであったとしても、)それ自体、誤った行為であり悪さがある。
加えて、その誤りに基づいた批判をしたりすれば、悪さは追加される(誤った批判をする悪さ)。
加えて、もし相手が実際にはトランスジェンダーだった場合、相手に特有の「傷つき」が生じる可能性は十分あり得る。マイノリティなのにマジョリティと判断されることは、マイノリティとして経験してきたその人の体験(特有の嬉しいことも被害なども)を「ないもの」とされるようなことにもなり得る。「あなたはそんな被差別経験したことないでしょう」とマイノリティ当人に言うような構図が間接的にできてしまう。(この「傷つき」を以て、悪さが追加されるかどうかは保留。されないような気もする。)
また、シスかどうか問うことや「予断」行為は、相手がトランスジェンダーであった場合、カミングアウトへのプレッシャーになり得る。(空気感としての圧力というより、言語行為上のプレッシャーとでも言うような。)例えば同性愛の場合でも報道陣からの実例があると思うが、このとき、肯定も否定もせずに「どうしてそれが今ここでの話と関係あるの?」「それを聞いてどうしたいの?」とメタ的に問い返すこともできるが、しかしそれはプレッシャーが存在しないということではない。
2,上記の「予断」行為を、「ガスライティング」「アウティング」とするのは誤り・不当と私は思う。
そもそも「ガスライティング」概念の拡散的使用にけむしは反対・懐疑的。どこがどうガスライティングに当たるのか不明。また、上記のカミングアウトへのプレッシャーと、アウティングとは概念上、区別されるべき。スティグマにまつわる概念として、関係している(近い位置にある)とは言えるかもしれないが、それまで。
3,個別の状況によっては、トランスジェンダーの特定個人がマジョリティ特権を享受することはあり得なくはないが(例えばパッシングしてたり)、相手のシス特権の「享受」を批判することと、相手をシスジェンダーであると予断することとは区別されるべき。もし、カラバコさんが、当該二人は前者をしているだけで、後者はしていないと認識・主張しているなら、けむしが見る限りの文言では、それは誤りだと思う。
追記(下記の追加投稿を受けて)
1,トランスゲートキーピング的な論を展開すること、「わきまえた当事者」的振る舞いをすること、を、『シス特権的振る舞い』と呼ぶ・見なすことは妥当でないと思う。なぜなら、自身が主張したそのゲートによって自身が排除されるとしても「わきまえ」る、という当事者はいるので。おそらく、「自身に害がないからその立場を取っているんだろう」、という推定で関連付けているのだと思われるが、その「わきまえ」の悪さ・問題点を直接指摘すれば良く、批判に際して余計な概念をくっつけるべきではない(オッカムの剃刀)。その「わきまえ」が、『シスジェンダー特権に無自覚に見える振る舞い』に見える、というのはカラバコさんの「素直な視点」だと思うが、けむしは妥当とは思わない。それはシスジェンダー特権の話ではなく、当事者でも差別協調的振る舞いはする、ということだと思う。
2,この誤った推定・分析によって、上記のけむし指摘3の区別に関して、カラバコさんは、李さんの『わきまえ』という主張上の立場と、『「シスジェンダー」と周りから見える人』『排除されないで済んだ人』という李さんのパッシング的位置とを混同させている。(もちろん、李さんも常にパスできるわけではないだろうから、この位置は不変なものではないことに注意。)この両者の混同の中間連結地点に、『シス特権的振る舞い』という概念が置かれている。この連結地点では、『シス的に振る舞える人』『シスジェンダー的な振る舞いをしている人』という言葉が、(「わきまえ」主張上とパッシング位置上との)二重の意味を持たせられており、それが混同に一役買っていると思う。そして、エミ・コヤマの「シス」定義も、その連結地点に援用されている。
3,ここからはカラバコさんが(現時点では)主張していない範囲の話になるが、もし、上記の「予断」行為を擁護する文脈で上記の混同が利用された場合、つまり、「だってシスジェンダー的振る舞いをしているから、シスジェンダーに見えても・そう判断しても仕方ないよね」とか、エミコヤマの定義を援用して「その人はパッシングできやすいような位置にいたり『わきまえ』たりするから、シス特権を享受する立場にあり、ゆえにもうその人をシスジェンダーと言っていいでしょ」とかいった話になってくるとしたら、かなり問題だと思う。
追記
『シス権力に基づく発言をした時に、シスじゃないかもしれないからシス権力的な言動を批判できない、となってしまっては本末転倒です。個人に対してシスかトランスか開示を迫るのは不適切であることは言うまでもありませんので、非開示でジェンダー適応的に振る舞っている人は、批判の際にシスジェンダーとみなして評価せざるをえないのです。』
やはりかなり問題のある認識だと思う。
「シス特権的」や「シス権力的」というのをゴミ箱概念にしてしまってはダメで、ピンポイントに悪さを指摘して批判すればよい(できる)。そうした批判は、相手をシスジェンダーと決めつけなくても可能である。
概念混同と、予断行為の悪さを軽く見積もっているのとの合わせ技で、このような認識ができてしまうのかなあ。
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