自分のモダンさをチェック
ことわざの文章の最も教訓的な箇所は明らかに「個人的で壮大な試み」によってカタルシスを得られるという決め打ちだが、その前に自己のモダンさについてグダグダ言い訳しなければならなかったのは必然かと感じ、その部分について何か書いておく必要があるような気がする。物事に時系列的にも論理的にも「順番」があり、それらがたびたび一致しないことはわれわれの生にぬぐいがたく染みついている非論理的な数々のイベントから人間本性の顕れに帰結したくもなるが慎重に行きたい。人間の思いつきという行為自体人間らしさを超えるところにありそうだから。 モダンさについて考えるときその今性を無視することはできない。常に決定は先送りにされており、そのようなものと自分の距離を客観的に推し量ることは非常にトリッキーなタスクになる。隣の人のやっていることを知り空気を読むだけで、他人の人権を理解してその概念の意図するところを感じながら行動したり、戦争に反対したり、投票したりという行動をとれるが、他人を質に入れたモダンさにエコーをかけたことで鼓膜が破れ、耳鼻科に押しかけても自然治癒を待ちましょうとしか言ってくれないのである。別に寝てる時以外モダンは空気よりもありふれていて読みやすいはずで、責任は常に自分で持ちたい気がする。とどまることなく軌道修正することに責任をもてというだけの話ではあり、無理難題という感じもしないが、槇原敬之みたいに自己の個人性に安住してしまおうという怠慢は普通に見かける。彼はだいたいの時間ラリってるのは周知なはずで、サバンナでバオバブをLGBTの色にライトアップするような夢を見たんだろう。
関係ないように見えるかもしれないが、この話が前提でやっと創作のモチベーションの話が身に染みてくる。旧時代にモダンは存在しないので当たり前か。